プルオーヴァー(pullover)

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心温着

プルオーヴァーはスェーターのことである。もしこう言ったなら、異論が出るに違いない。「プルオーヴァー・シャツもあるではないか」と。まったくその通りである。
頭から被って着る式の服はなにもスェーターに限っているわけではない。しかし「プルオーヴァー」が多くスェーターを指して使われるのも事実であろう。
ひとつの例ではあるが、ハーディ・エイミス著『ファッションのABC』を開いて「プルオーヴァー」を探すと、「スェーターを見よ」とある。それで「スェーター」の項目を眺めると、延々と説明されている。
イギリスでの「スェーター」は、アメリカ的な表現だと考えられている。少なくとも「スェーター」がアメリカで生まれた言葉であることは間違いない。
英国ではふつう「ジャンパー」とか、「ジャージー」と呼ぶことが多い。が、『ファッションのABC』には、「ジャンパー」は見当たらない。私見ではあるが、前掲書は少し気取ったところのある辞書であり、またその一方で国際感覚に寛容な辞書でもあるのではないか。
今のプルオーヴァーが、古い時代のフィッシャーマンズ・スェーターに端を発していることは、半ばの定説になっている。
フィッシャーマンズ・スェーターの源は、北海で働く漁師の作業着であった、と。北海の冬は厳しい。北風、霧、雨。寒風から身を守るためには、開口部はなるべく無い方が有利であった。だからこそのプルオーヴァーなのだ。前開き式のカーディガンははるか後の、十九世紀のことである。それ以前の数世紀に亘って、頭から被って着る毛糸の服だったのである。

「ウール製の、プルオーヴァー・スェーターは、2ドル98セントの値段です。」

1921年『デイリー・コロニスト』紙4月6日付の広告ページの一行である。「プルオーヴァー・スェーター」と、懇切丁寧な表現になっている。『デイリー・コロニスト』は当時、カナダ、ヴィクトリア州で出ていた新聞である。
ただ、「プルオーヴァー」の表現は、それ以前にも用いられていたものと思われる。
プルオーヴァーに適しているウールとして、シェットランド種羊毛がある。シェットランド諸島の羊なので、その名前がある。
シェットランド・ウールは紀元前四千年の昔に遡るというから、古い。その後、品種改良が行われて、現在に至っている。シェットランド・ウールはひと言で表現するなら、糸と糸とが絡みやすい。だから、プルオーヴァーに向いているのだ。
中世まではシェットランド諸島でも、「マドワル」と呼ばれる畝織地があったという。が、その後は織物よりも編物が多くなったとのことである。
かの有名なフェア・アイルも、シェットランド諸島からさして遠くはない。
漁師と編物の関係は深い。漁は待ち時間の多い仕事でもある。彼らは待ち時間の間に、毛糸を編んだのだ。毛糸は、編針と糸とさえあれば、どこでも編めるからである。それで自分たちの使うニット以外にも、編んだ。それは漁師にとっての貴重な「貨幣」でもあった。他の土地の人々と、生活用品を物々交換するために。

「いまも、朝子は黙つたまま小さいスウェタァの一段を編み終わつた。更に絲のゆとりを膝の上にたぐりあげ……」

宮本百合子著『一本の木』 ( 昭和二年発表 ) の一文。これは朝子の甥の「健ちゃん」のために編んでいる様子。これもまた、プルオーヴァーであっただろう。
昔は日本でも手編のプルオーヴァーは珍しいことではなかった。好きな糸で、好きな柄に編める。編めるだけでなく、解いて編み直すこともできる。

「ゴルフ歸りのやうに見える、Vネックにプルオーバーの紳士は、仁羽の傍へ寄って来ると……」

横光利一著『寝園』 ( 昭和五年発表 ) の一節。小説描かれた「プルオーバー」としては、比較的はやい例かと思われる。また、「Vネック」についても同じことが言えるだろう。
余談ではあるが、ハーディ・エイミスは前掲書の中で、Vネック、クルー・ネック、ポロ・ネックを、プルオーヴァーの三大デザインとして挙げている。「ポロ・ネック」 polo neck はタートル・ネックに対するイギリス式の表現である。

「家へ歸ると妻は茶の間で子供のジャケツか何かを編んでいた。」

宇野千代著『色ざんげ』 ( 昭和十年発表 ) に出てくる文章。もちろん「男」が家に帰った場面。「男」とは、東郷青児かと思われる。それはともかく、ここでの「ジャケツ」は、プルオーヴァーであろう。少なくとも戦前までの日本では、プルオーヴァーのことを「ジャケツ」と呼んだものである。

「縞のジャケツの マドロスさんは パイプ喫かして ……」

昭和二十九年のヒット曲『ひばりのマドロスさん』の歌い出し部分である。ここでの「ジャケツ」も、言うまでもなくプルオーヴァーのことであったのだ。

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