フロック・コート(frock coat)

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遠望古典上着

フロック・コートはダブル前の、丈長の上着のことである。フロック・コートは十九世紀中葉の日常着であり、これを簡略にしたのが、モーニング・コートなのだ。モーニング・コートの父と言って良いのが、フロック・コートである。
モーニング・コートのことをアメリカ英語で、「カッタウエイ・コート」 cutaway coat という。これはフロック・コートの前裾を「カッタウエイ」したところからの命名なのだ。フロック・コートなくしてモーニング・コートが生まれることはなかったのだ。
一方、フランスではフロック・コートのことを、「ルダンゴット」 redingote と呼ぶ。ルダンゴットが英語の「ライディング・コート」のフランス訓みから来ているのは、よく知られているところであろう。フランス語での「ルダンゴット」は、1725年頃から使われているとのことである。
それはともかく「ルダンゴット」なり、フロック・コートなりが十七世紀の英国での乗馬服と無関係ではないと思われる。フロック・コートの前にはただ単に「フロック」 frock と称されたもの。それはごく簡単な、丈長の上着であった。そのフロックが「フロック・コート」らしくなるのは、1823年頃のことである。
1823年頃になって、フロックにウエイスト・シームが採用されることによる。ウエイスト・シームとは、腰の位置での、水平の、腰縫目のこと。つまり1823年以前のフロックは、一枚の布で仕立てられていたのである。
もっともその前ぶれとなるのが、1819年頃の、「ウエリントン・フロック」。ウエリントン・フロックにはウエスト位置に、ダーツがあしらわれていた。このダーツが後にウエイスト・シームになったものであろう。
たしかに1820年代になって「フロック・コート」らしくなるのだが、それでも基本的にはシングル前であった。やがてダブル前のフロック・コートが流行になるのは、1829年頃のことである。
ひとつの例を挙げるなら、1820年頃、「ライディング・ドレス・フロック・コート」があった。これは細身の、シングル前の上着であった。細身ではあるが、前ボタンの上だけを留めたので、乗馬にもなんの問題もなかったのだ。そしてこの上着の別名が、「クローズ・コート」。それほどにタイトなラインだったのである。

「フロック・コートは午前中のみならず、ディナーや夜間での着用も差し支えないものである。」

1839年『ザ・ジェントルマンズ・マガジン・オブ・ファッションズ』誌の記事の一節である。1830年代にあっては、フロック・コートは必ずしも日中着ではなかったようである。1830年代のフロック・コートは、ちょうど今日の「スーツ」のような感覚であったのだろうか。それはともかく、フロック・コートが紳士の日常着であったことは間違いない。当然、数多くの流行があった。と同時に、着丈にも流行があった。丈が長くなったり、短いなったり。それはさながら現代の女性のスカートにも似ていたのである。
1840年頃の流行に、「タリオリーニ・フロック」があった。これは立襟の、装飾的なフロック・コートのことであった。
1850年『ザ・ジェントルマンズ・マガジン・オブ・ファッションズ』6月号に、ふたつのフロック・コートが紹介されている。片前のフロック・コートと、両前のフロック・コートとの。前者は街歩き用、後者は乗馬用と説明されている。いずれにしても1850年代には、シングルのフロック・コートとダブルのフロック・コートとが、共存共立していたことが分かるだろう。

「目下の最新流行は、ショート・フロック・コートである。時にはシルク・サージの襟や、ヴェルヴェットの上襟があしらわれたりするものだ。」

1869年『ザ・テイラー・アンド・カッター』誌には、そのように書かれている。

「今、各テイラーは、流行に敏感な若者によるフロック・コートの注文に追われている。」

1870年『ザ・テイラー・アンド・カッター』誌の記事。フロック・コートの流行ぶりが窺われるものであろう。

「一般人はモーニング・コートを着ることが多くなっているが、弁護士や医者などは依然としてフロック・コートを着ている。」

1887年『ザ・ジェントルマンズ・マガジン・オブ・ファッションズ』誌には、そんな一文が出ている。

「割羽織は身分ある人の常服である。」

片山淳之助著『西洋衣食住』 ( 慶應三年 ) の一文。ここには絵が添えられていて、「ゼンツルマンコート」と解説されている。これがフロック・コートであるのは一目瞭然である。
これこそ日本におけるフロック・コートの初紹介であり、「片山淳之助」が福澤諭吉の筆名であるのは、言うまでもない。慶應三年とは、1867年のことである。
森有禮と、廣瀬 常とが結婚したのは、明治八年二月六日のことである。これは日本初の「契約結婚」として話題になったものである。翌日の『東京日日新聞』は、次のように伝えたものである。

「或いは「フロックコート」と唱ふる袴羽織の代服を勤むる西洋服を着たる方も間々見へたり。」

結婚式は、築地采女町、森有禮の自宅で行われ、その立会人となったのが、福澤諭吉であったのだ。

「昨今は官吏を始め商人に至るまで黑の綾羅紗仕立てのフロックコートを好むに付、同品も何程か價を引上げたり……」

明治十九年『郵便報知新聞』十月二十四日付の記事の一節である。当時のフロック・コートへの人気ぶりが分かろうというものだ。
着丈の短いフロック・コートなら、今でも充分通用するに違いない。

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