ニッテング(knitting)

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

ニッテングは編物のことである。
ニットは「編む」、ニッターは「編む人」、ニッテングは「編物」。ニッテング・グッズであり、ニット・ウエアでもある。
ニッテングが一本の糸によって完成されるのに対して、ファブリックは、縦横二本の糸で仕上げられる。それが織地と編物との決定的な違いとなる。一本の糸で終始する編物は解くことが可能。解いた糸で、まったく別のものを編み直すのも可能である。
編物と布地はどちらが先に生まれたのか。おそらく人類の歴史上、織ることよりも編むことを先に知ったのではないだろうか。
人は誕生とともに魚を得ることを覚えたに違いない。魚を得るためには網が必要である。なんらかの漁網もまた「編む」ことと無関係ではなかった。
また人は鳥を射ることもあっただろう。鳥を射るための弓矢。矢は細い木の先に尖った骨の鏃を付けたかも知れない。この矢の鏃の結びこそ、「編む」ことの原初だったとの説もある。
英語の「ニット」 knit は古代英語の 「ニッタン」 cynittan から来ているとのこと。これは「結ぶ」の意味であったという。「ニッタン」はまた 「ノット 」 knot とも関係があるらしい。編むことは結ぶことからはじまった、そうも言えるだろう。事実、古代の漁網は編んで結び、結んでは編むの繰り返しから作られたとのことである。編むことと、結ぶこととがかなり近いのは間違いない。

「衣服としての最初の編物は、エジプトの墓で発見されたくつ下で、紀元前7〜8世紀ころのものと推定され、アラビア砂漠の遊牧民がはいたものとおもわれる……」

『田中千代服飾事典』には「編物」について、そのように説明している。この解説をはじめとして、ニット・ウエアのはじまりが靴下であったことは、多くの服飾史書が語っているところであろう。足の動きは微妙であって、伸縮性に富んだニッテングは最適だったに相違ない。
ヨハン・ベックマン著、今井幹晴訳『モノここに始まる』によれば、1528年8月16日に「靴下編物職人組合」が誕生しているという。フランスにおいて。いわゆるギルドである。少なくとも十六世紀のヨーロッパでニッテングによる靴下が盛んだったと考えて良いだろう。『モノここに始まる』の原著は、1846年の刊行である。その中に次のように一説がある。

「上流階級の人々の間では、編み物は女子教育の一環と考えられている。編み方さえ丁寧に教えてもらえれば、子供でも技術を習得できる。」

十九世紀にはニッテングがひとつの教養であったことが窺えるものである。
日本でのニッテングは、「フェリス女学院」と関係がある。明治八年、「フェリス・セミナリー」として開校。後に「フェリス和洋女学校」となる。この「フェリス・セミナリー」開校に力のあったのが、メアリー・エディ・キダーである。
メアリー・エディ・キダーが日本に着いたのは、明治二年のこと。横浜に移ったのが、明治三年である。このメアリー・エディ・キダーこそ、はじめて日本人にニッテングを教えた人物なのだ。明治五年ころのことであろう。余談ではあるが、メアリー・エディ・キダーの墓は、横浜、外人墓地に建っている。

「伊勢与が売出したのは毛糸である。いつ頃か不明であるが、多分明治十二三年頃であろう。」
内田魯庵著『魯庵の明治』には、そのように出ている。日本ではじめて毛糸を売出したのが「伊勢与」であったことは疑いない。「伊勢与」の主人は、三枝与三郎といったが、ただなんとなく仕入れた中に毛糸があった。それを買っていく西洋人に「何に使うものか?」と訊いてはじめて納得したという。それから後、「毛糸は伊勢与」として有名になったのである。その時代の「伊勢与」は築地にあった。今、銀座で子供服を商う「サエグサ」は「伊勢与」の後の姿である。

「十三四の女の子が一人石垣にもたれて、毛絲を編んでゐる。(中略 ) 三歳ばかりの女の子が無心に毛絲玉を持ってゐた。小さな女の子から大きな女の子へ引つぱられる一筋の灰色の古毛絲も暖かく光つてゐた。」

川端康成著『雪國』の一文である。手編みのニットには、愛か編みこまれている。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone