ケリー・グラント(Cary Grant)

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美服子

ケリー・グラントはイギリスで生まれ、アメリカで活躍した映画俳優である。
ケリー Cary はどのように表記すべきなのか。昔、英国の詩人に、ヘンリー・フランシス・ケアリー Henry Francis Cary という人がいた。これは姓ではあるが、「ケアリー」となる。
ということは、「ケアリー・グラント」であるのかも知れない。が、日本での人名辞典などでは、「ケリー・グラント」と書かれている場合が多いので、それに従うこととする。
ケリー・グラントは美男子であり、また着こなし上手としても知られている。ところが、そうでありにもかかわらず、ケリー・グラントの名前に因んだファッション用語は、今のところ、ない。
「バリモア・カラー」があり、「ゲイブル・カラー」があり、「レックス・ハリスン・ハット」などがあるのに。
ケリー・グラントは1904年1月18日、英国のブリストルに生まれている。れっきとしたイギリス人なのだ。長じてからも、イギリス国籍とアメリカ国籍とのふたつを持っていた。イギリス人であり、同時にアメリカ人でもある。これがケリー・グラントの着こなし上手の秘密でもあっただろう。
ケリー・グラントの本名は、アーチボルト・アレクサンダー・リーチ。A・A・ リーチは十二歳の頃に、家出をしている。家出をして、旅回り劇団についてゆく。そのうちにリーチ自身も舞台に立つようになる。歌って踊れる子役だったのだ。それに、ジャグリングの名手でもあった。
その後、アーチボルト・アレクサンダー・リーチは「ボブ・ペンダー劇団」に入る。1920年、「ボブ・ペンダー劇団」は、アメリカ巡業の旅に。もちろん、リーチも一緒である。このアメリカ巡業は約二年間続いて、帰国。しかしA・A・リーチはアメリカに残ったのだ。一時、ブロードウェイの役者になろうとしたこともあったらしい。
その後、ハリウッドへ。ハリウッド、パラマウント映画のスクリーン•テストを受けたのは1932年のことである。美男で、様子も良いので、採用。この時、リーチがキングス・イングリッシュをきちんと話せることも、有利に働いたと伝えられている。
この折に、パラマウント映画が用意していた芸名は、「ケリー・ロックウッド」であったという。その直後、「ケリー・グラント」に直したのだ。つまりケリー・グラントが誕生したのは、1932年ということになる。
しかしそれにしてもなぜケリー・グラントはダンディとされるのか。それはひと言で言って、常に自分のスタイルを持っているから。「ケリー・グラント・スタイル」を。
ケリー・グラントは古典柄を好む。ケリー・グラントはノー・スターチのシャツを好む。ケリー・グラントはソリッドのタイを好む。たしかにその通りでもあろうが、それらは部分品に過ぎない。根本は、揺ぎない「ケリー・グラント・スタイル」にある。
ケリー・グラントの職業は、俳優。俳優の勤めは与えられた役柄を演じることにある。ところが、ケリー・グラントに限っては、いかなる役柄といえども着ている服装はいつも「ケリー・グラント・スタイル」なのだ。それは「衣裳」ではなく、「主義」の表現なのだ。
ひとつの例を挙げるなら、『北北西に進路を取れ』 (1959年 ) がある。この映画の中で、ケリー・グラントは、NYの広告会社の重役、ロジャー・ソーンヒルを演じる。が、最初から最後まで「ケリー・グラント・スタイル」なのだ。それはグレイのスーツで、シングル前のスリー・ボタン型、中ひとつ掛け。白い「ケリー・グラント・シャツ」に、無地のネクタイ。黒い靴にグレイの靴下。
『北北西に進路を取れ』では、このスーツしか着ないのだ。細かいことをいえば、列車から逃げ出す場面で、ポーターの制服を着ることはあるのだが。
このグレイのスーツ仕立てたのは、ロンドン、サヴィル・ロウ、「キルガー・フレンチ&スタンバリー」である。ケリー・グラントはこの映画のために、まったく同じスーツを六着仕立てたという。道理で、格闘場面の後でも、それほど乱れていないはずだ。
「キルガー・フレンチ&スタンバリー」では、可能な限り、アメリカの広告会社重役が着るようなスーツを、という想いもあっただろう。しかしそれをケリー・グラントが着ると、「ケリー・グラント・スタイル」になってしまう。
ケリー・グラントは根っからの着こなし上手だったのだ。

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