豪邸と靴磨き

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豪邸には、誰だって憧れがありますよね。部屋の数、三十いくつだとか。でも、どこからが豪邸になるのか。どこまでが、豪邸なのか。豪邸よりも大きくなると、ほとんど「城」でしょうね。これは、ひとつの例ですが。

「彼の家はリヨン郊外にある豪邸で、私はたびたび泊まったが庭園に汽車が走っているほどの広大な敷地であった。」

遠藤周作著『私の履歴書』には、そんなふうに出ています。「庭園」に。「汽車」が。
リヨンはフランスですが、これに似たことは、イギリスにもあったみたいです。そもそもヨーロッパの富豪は昔から広い土地を持っているわけで。その後になって、汽車が。そうなると、汽車のほうで。「今度、おたくの地所を列車が通ることになりまして……」ということに。
すると、富豪のほうで。「どうぞ、お通りください。でも、駅をひとつ作ってくださらんか」いうことにも。
そうなると、自分の庭先から、汽車に乗ることもできたでしょうね。
それはともかく。ここでの「彼」とは、誰なのか。ネラン神父。遠藤周作の小説にもよく登場する、ジョルジュ・ネラン。ジョルジュ・ネランは、1920年。リヨンに生まれ、東京で世を去った神父。2002年のこと。
ジョルジュ・ネランは遠藤周作にとっての恩師でもあった人物。
昔、新宿、区役所通りに。「エポペ」というバーがあった。このバーのバーテンダーで、経営者だったのも、ネラン神父。日本人の本音を引き出すには、バーに限る、との想いだったとか。ネラン神父は夜毎、「エポペ」で、悩める人の話を聞いたのです。これもネラン神父なりの布教の姿だったのですね。
遠藤周作のフランス留学は、昭和二十五年六月四日のこと。この時、日本人三名の、留学。留学費用は、フランスのキリスト教会からと、聞かされていた。もちろん、遠藤たち留学生はそれを信じた。
留学も終わり、かなり後になって。実はあの時の留学費用は、ネラン神父の個人的なポケットから出ていたのだ、と。
昭和二十五年。遠藤周作は留学することの挨拶に行く。そこである神父に教えられたこと。
「ムッシュ・エンド。フランスに行ったら、毎日、靴を磨くように、」
その時。たまたま遠藤周作、靴を磨いていなかった。
さて。豪邸を夢想しながら、靴を磨くとしましょうか。

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