ラフマニノフと流行

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ラフマニノフは、ロシアの作曲家ですよね。ことに知られているのは、『ピアノ協奏曲 第二番』でしょうか。少なくともラフマニノフの最高傑作であるのは、間違いありません。また、超絶技巧が要求される曲でもあります。「もしかすればラフマニノフにしか弾けない曲ではないか」そんな声もあるほどに。
『ピアノ協奏曲第二番』は、すんなりと生まれた曲でもないようですね。ラフマニノフ自身としては、長い絶望の果てにやった発見した虹のような心境だったかと、思われます。
1895年に、ラフマニノフは、『交響曲第一番』を作曲。この『交響曲第一番』が、不評。そのためにラフマニノフは神経衰弱ノイローゼに。とても作曲をする気持ではなくなってしまって。
ただし今現在では『交響曲第一番』もまた優れた曲とされています。当時の、政治的な動きから意図的に非難されたものだったのですから。
作曲のできなくなったラフマニノフは、演奏活動に勤しむことに。この演奏活動で出会ったのが、シャリアピン。声楽家の、シャリアピン。あの「シャリアピン・ステーキ」で知られるシャリアピンのことです。シャリアピンとラフマニノフは、終生の親友だったそうですね。
その一方で、ラフマニノフは友人の勧めで、ニコライ・ダール博士の治療を受けることに。ニコライ・ダールは精神科の医師で、ラフマニノフに睡眠暗示療法を施す。このニコライ・ダール博士の治療法についても、いろんな説があるようですが。
ラフマニノフが精神的に立ち直ったのは、事実。『協奏曲第二番』がニコライ・ダールに捧げられているのも、事実。とにかく『協奏曲第二番』の裏側に、奇跡の復活があったのは、ほんとうなのでしょうね。
ラフマニノフが出てくるミステリに、『合衆国を売った男』があります。1980年に、T・オールビューリーが発表した物語。

「わたしが入党したのは、チャイコフスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、さらにはクラズノフのせいですよ。」

これは、ブルーボという男の科白。この話を聞いているのが、SIS部員の、ジェームズ・マッケイという名の主人公。マッケイはどんな服装なのか。

『三つぞろいのスーツよりは、むしろいろいろ組み合わせた服装のほうが好みだった。」

そして、それは。

「一般的な流行よりもちょっと早く身につけたシャツや靴が、着る者を目立たせることがある…………」。

なるほど。時には、流行も意識してみましょうかね。

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