西郷どんと西洋服

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西郷どんが、西郷隆盛であるのは、いうまでもありませんよね。でも、西郷どん自身は、隆盛より、「吉之助」に近しさを感じていたようです。
西郷どんの書簡は今も多く遺されています。その西郷どんの手紙の末尾には、「吉之助」の署名があります。たぶん西郷どんは、「西郷吉之助」と呼んでもらいたかったのでしょう。
西郷どんは、清廉潔白を絵に描いたような人物であったらしい。金銭や名誉、地位の惑わされることがまったくなかったお人。それでいて明治のはじめ絶対の力をもっていて。それというのも、明治の軍隊が西郷どんに絶対服従であったから。明治はじめの為政者にとって西郷吉之助ほど困った存在もなかったようですね。
西郷吉之助の故郷が薩摩であるのは、もちろんのことです。幕末の薩摩は、すでに国防を考えていて。そのためにはやくから、西欧文化の研究をしていたとのことです。
一方、薩摩には薩摩伝統の文化があって。たとえば、薩摩琵琶。琵琶もやはりはるか遠い時代に、大陸から伝えられたものでしょう。その琵琶を使っての、語り。薩摩琵琶。
薩摩琵琶の名手だったのが、永田錦心 ( ながた きんしん ) 永田錦心の師匠が、肥後錦獅で、わずか二十歳で、免許皆伝。
永田錦心、十八歳の時。麹町のさる宮家に呼ばれて、演奏。永田錦心、食べかけの菓子を袂に入れておいて。その菓子めざして、アリの大群。痒くて、痒くて。宮様の前で、演奏中で。掻くにに掻けない。耐えて、耐えて。こらえt、堪えて。唄というよりほとんど絶叫。この絶叫の薩摩琵琶、大いに受けたんだそうですが。
永田錦心は、芝愛宕下の、「永田西洋服店」の息子。「永田西洋服店」は、東京ではかなり古い店。
もし、永田錦心が薩摩琵琶ではなく、西洋服の道に入っていたなら。いったいどんな服を作っていたでしょうか。とても、興味ありますね。

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