梔子と靴

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梔子の花って、ありますよね。白くて、清楚な、花。なんだか女の人にたとえたい気持、解ります。
たとえば、『くちなしの花』という歌があります。水木かおる作詞、遠藤 実作曲。渡 哲也が歌って。
渡 哲也は『くちなしの花』を吹き込む前に、石原裕次郎に、報告。その時の石原裕次郎の言葉。「哲、もし、これがヒットしたら、オレは銀座中を逆立ちして歩いてやるよ」
渡 哲也の『くちなしの花』は、拍手喝采となって。石原裕次郎が逆立ちをしたかどうか、寡聞にして聞いてはおりませんが。
梔子の花を髪に挿して歌ったのが、ビリイ・ホリデイ。一時期、梔子の花はビリイ・ホリデイの象徴にもなったほど。ビリイ・ホリデイが、『奇妙な果実』を歌う時、いつも本物の涙を流したという。
梔子の花がお好きだったひとに、團伊玖磨がいます。

「あの甘酸っぱい香りを立ち昇らせる白い花と……………」。

團伊玖磨著『パイプのけむり』の中に、そのように書きはじめています。章題は、「梔子」。
『パイプのけむり』は、もともと『アサヒグラフ』に連載された読物。昭和三十九年にはじまって。これが平成十二年まで、好評。三十六年の連載は、ちょっとした記録でしょうね。
三十六年の間、名随筆を書き続けた團伊玖磨は、美事であります。そしてまた、團伊玖磨の文字遣いをそのまま印刷した『アサヒグラフ』も、立派。團伊玖磨著『パイプのけむり』は、永く世に遺るでしょう。
團伊玖磨は、『パイプのけむり』の中に、靴の話も書いています。

「靴が痛いのである。いや、靴が痛い筈はない。靴が小さ過ぎて足が痛くて堪えられぬのである。」

これは「ポルトガルの靴」と題した章の中で。
今、團伊玖磨は日比谷公園にいて。音楽堂へ急ごうと。でも、急ぐに急げない。靴が痛いので。
しかし名随筆家は、ここで考える。「靴が痛い」という表現は妙ではないか、と。痛いのは靴ではなくて、足のほうだから。うーん、名文家ならではのお考えなのでしょうね。
「足を痛める靴」は、論外のことですが。私の考える正しく靴は、ただただまっすぐな靴。爪先で反りあがっていない靴。
踵の端から爪先の先まで、一直線で、地面に密着する靴。
そんな理想の靴を履いて、日比谷公園に梔子の花を探しに行くとしましょうか。

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