ポロ・シャツ(polo shirt)

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素肌の親友

ポロ・シャツは襟付きの、半袖シャツのことである。そしてなによりの特徴は、ニット地で仕立てられること。その編み地の多くは、モス・ステッチ。モス・ステッチは「鹿の子編」のことである。モス・ステッチは糸量が多く、しかも風通しの良い編み方。これがポロ・シャツの快適さの秘密なのだ。

「ポロ・シャツ」は今や国際語のように使われている。フランスでも、「ポロ」で充分通じる。が、たいていは、「ラコスト」 Lacoste と呼ばれる。フランス人の、ジャン・ルネ・ラコストが発明したからである。もちろん日本でいう「ラコステ」のこと。ワニが目印になっていること、いうまでもない。「クロコダイル」は、ジャン・ルネ・ラコストの仇名だったから。

ジャン・ルネ・ラコストは、1920年代に活躍した、フランスのテニス選手。何度か世界チャンピオンにもなっている。相手の打った球をどこまでも追う姿を、鰐にたとえたとも。また、もう一説には、試合会場に向かう途中、偶然見事なクロコダイルの鞄を目にして、「よし、試合に勝って買おう」と言ったからだとも。いずれにしても、これらの話を伝えたのは、当時のスポーツ記者だったのだ。

1920年代の、正式のテニス・ウエアは、純白と定められていた。白いシャツに、白いトラウザーズ。布地の、長袖シャツで、たいていの選手は袖を肘の上まで折り返して着たものである。

ルネ・ラコストは必ずしも当時のテニス・ウエアに満足はしていなかったらしい。ラコストが英国、ウインブルドンで優勝するのは1925年のことである。同じフランスの名選手、ジャン・ボロトラと戦って、6ー3、6-3、4ー6、8ー6、で優勝。

この時、ルネのラコストはポロ競技を観戦している。そしてポロ競技の選手たちが、ジャージー製のシャツを着ていることに注目。あの、ポロ用のシャツがテニス・ウエアに転用できないものかと。それでラコストはイギリスのメーカーに、ジャージーの半袖シャツを何枚か注文するのである。

それはあくまでもテニス用ではあったが、もともとポロ・プレイヤーが着ていたので、「ポロ・シャツ」と呼ばれるようになったのだ。

1920年代の後半、ラコストは実際に「ポロ・シャツ」を着て、コートに立ったこともあるだろう。が、ルネ・ラコストは体調を崩して引退。結核だった。ラコストは引退してからも、「ポロ・シャツ」のことが忘れられなかった。なぜ人は、あんなにも快適なシャツを着ないのかと。で、実際に商品化することになったのが、1933年のこと。この時、製品化に全面協力したもが、アンドレ・ジリエ。アンドレ・ジリエはその頃、フランス最大のニットウエア・メーカーの社長であった。

ポロ・シャツ。それはいうまでもなく、テニス・プレイヤーのためのテニス・ウエアとして。ところが時代とともに広く一般の人びとも袖を通すようになる。1939年の一年間で、三十万枚の「ポロ」が売れたという。純然たるテニス・ウエアであったなら、おそらくその数字には届かなかったに違いない。

1937年3月に、「スカシェット」( スカッシュの小型版スポーツ ) が、ロンドンで紹介されたことがある。考案者は、フレッド・ダイヤー。フレッド・ダイヤーはポロ・シャツらしきものを着ている。新しいスポーツには新しいウエアだ、ということであったのだろうか。

「色違いのポロ・シャツ六枚はどれも袖がきちんと裏側に折りたたんである。」

ロバート・B・パーカーが、1974年に発表した『誘拐』の一節。これは、十五歳の少年、ケヴィン・バートレットの部屋を私立探偵のスペンサーが調べている場面。1970年代のアメリカでは、少年が色違いの六枚のポロ・シャツを持つのは、よくあったことなのであろう。

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