カメラとカナリア・イエロー

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

カメラは、写真機のことですよね。写真を職業とする人を、カメラマンというではありませんか。
もちろん、写真家のことであります。でも、偉大なる写真家に「カメラマン」と呼びかけてよいのかどうか、微妙なところでしょう。
カメラマンというより、「フォトグラファー」と称するほうがよいのではないか、とか。
たとえばの話。ロバート・キャパを「カメラマン」と呼んでもいいのでしょうか。まあ、言葉とは難しいものであります。
これと似たようなことが、マン・レイにも言えるでしょう。マン・レイは「カメラマン」の範疇に入るのか、入らないのか。
これも一例ですが、「ソラリゼイション」。モノクローム写真に於いて、わざと露出を多くして、白黒を反転させる手法なんだとか。
このソラリゼイションは、マン・レイと関係があると考えられています。
1920年代の巴里で。マン・レイが暗室で現像している時、間違えてリー・ミラーが、暗室の扉を開けて。露出過多に。
リー・ミラーは当時、マン・レイの助手であり戀人だった人物。もっともリー・ミラーが突然、巴里のマン・レイの所を訪ねて結果なのですが。
露出過多になった写真を見たマン・レイは何と言ったか。

「ボン! いい作品になったぞ」。

こういう人こそ、「藝術家」と呼ぶべきなのでしょうね。
マン・レイと、もうひとつ関連づけられる手法に、「レイヨグラフ」があります。
「レイヨグラフ」は、印画紙に直接、物を置いて感光させる方法のことなんだそうです。
この「レイヨグラフ」の名称は、マン・レイの命名だとの説があるのですが。
レイヨグラフもまた、1920年代の巴里で誕生したと考えられています。
ある時、マン・レイが現像していて。誤って印画紙を現像液に落としてしまって。運の悪いことには、現像の道具まで印画紙の上に落としてしまった。
マン・レイがあわてて印画紙を引き上げると、不思議な画像が浮かび上がっていて。マン・レイは飛びあがって喜んだと、伝えられています。
これこそ「レイヨグラフ」のはじまりと言われているのですが。
今に至るまでも、マン・レイの写真でもっとも有名なのは、『アングルのヴァイオリン』ではないでしょうか。題を覚えているか否かはさておき、誰もが一度は目にしている写真です。
裸の女の背中が写っていて。その背中がヴァイオリンになっている構図。このマン・レイのモデルになったのが、キキ。
1920年代の巴里で知らぬ者がいなかったほどの人気モデル。巴里の街をマン・レイとキキが腕を組んで歩くと、皆がうっとりと眺めたという。
『アングルのヴァイオリン』は、1924年『文學』6月号の表紙を飾った写真。『文學』は、1922年3月に創刊された文藝誌。というよりも、シュルレアリスムの専門誌だっとするほうが、より正確でしょう。
事実、マン・レイもまた、シュルレアリスムのひとりだったのですから。
雑誌といえば、アメリカの『ヴァニティ・フェア』。当時、もっとも豪奢な雑誌だとして人気があったものです。
マン・レイは『ヴァニティ・フェア』から依頼されて、巴里の藝術家の肖像を写しています。ピカソ、ジョイス、ガートルード・スタイン……………………。
それとは別にマン・レイが肖像写真が撮りたいと思ったのが、ポオル・ポアレ。その頃、
人気絶頂だったオオトクチュール・デザイナー。
そのためにマン・レイは、ポオル・ポアレに会っています。その時代のポアレははじめての人には会わないと、言われていたにもかかわらず。
どうしてポアレは、マン・レイに会ったのか。ピカビアの紹介状があってから。
でも、マン・レイはポアレに、「肖像写真」のことは言い出せなかったそうです。ポアレから流れ出る妖気に圧されて。
結局、ポアレの提案でファッション写真を撮ることに。今、マン・レイのファッション写真が遺っているのは、そういう事情からなのです。
はじめてマン・レイが、ポオル・ポアレに会った時、ポアレは何を着ていたのか。

「………錦の取りちらかった机の向うにポワレその人が坐っていた。印象的な男で、カナリア色の上衣で入念身づくろいをしていて、東洋的に見えるあごひげを生やしていた。」

『マン・レイ自伝 セルフ・ポートレート』には、そのように書いています。
1920年代のはじめ、ポオル・ポアレはカナリア・イエローのジャケット着ていたのでしょう。
どなたかカナリア・イエローの上着を仕立てて頂けませんでしょうか。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone