リスボンと綸子

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

リスボンは、ポルトガルの首都ですよね。日本人が訪れて、なぜか懐かしさを感じる街。
そのむかし、日本はポルトガルと交易があったからでしょうね。
リスボンが好きだった作家に、三島由紀夫がいます。

「リスボンは又、人口の少ない町で、どこもかしこも深閑として、下町へ行かなければ人の群に会わない。」

昭和三十六年『婦人生活』六月号にそのように書いています。
さらにまた、こうも書いているのです。

「隠居するならリスボンに限ると思った。」

ぜひ、三島由紀夫にはリスボンで隠居して頂きたかったのですが。

リスボンに旅した人物に、グレゴリウスがいます。古典文献学者。ライムント・グレゴリウス。
もっとも小説の中の主人公なのですが。
2004年に、パスカル・メルシェが発表した『リスボンへの夜行列車』に登場する人物。

青白いやせた顔のまわりをクロシェット編みにのスカーフで覆い、先端を顎の下で合わせて、手で押さえている。」

グレゴリウスがリスボンで、偶然に会う女の描写。そのほかはすべて黒ずくめの衣裳。

「……………尼僧を思わせる厳しい美貌で、ギリシア悲劇から抜け出てきたかのように見えた。」

そうも書いています。
リスボンと関係なくもないお方に、ロドリゲスがいます。ジョアン・ロドリゲスは、1561年頃、ポルトガルに生まれているのですから。
ジョアン・ロドリゲスは宣教師で。天正五年、日本に。西暦の、1577年のことです。
ロドリゲスは日本語を学び、たちまちのうちに、日本語を習得。それからはイエズス会の通訳にもなっています。
そのようなことから、秀吉にも、家康にも会っているのです。ロドリゲスは、1634年頃、世を去ったと考えられています。
ロドリゲスの最大、最良の仕事は、『日本小文典』でありましょう。 『日本小文典』は、
ポルトガル人による最初の「日本語辞典」なのです。しかも文法から敬語に至るまでの詳しい事典にもなっている点で、貴重この上もない書物であります。
『日本小文典』は、1620年の刊行。今から四百年前の「日本語辞典」なのです。ということは、今から四百年前の日本では、どのような言葉が用いられていたのかが窺える書物でもあるでしょう。たとえば。

クレナイノ r inz u ジッタン

そんな表現もあります。おそらくは、「紅の綸子 十反」の意味かと思われるのですが。
つまり、元和六年頃のには、すでに「綸子」があったのはまず、間違いないでしょう。

「……………糸は滑らかで粘く、これは綾類で最上のものである。」

正徳二年に、寺島良安が編んだ『和漢三才図会』には、そのように解説されています。もちろん、「綸子」について。
寺島良安は、もともと「綾子」が正しくて、「綸子」は俗字だとしているのですが。

「………………上には白き綸子に、色々の絲をもつて、物の上手が縫ふたりけり。」

慶長十四年の古書、『恨の介』にも、そのような一節が出てきます。
たぶんこれは綸子の上に刺繍をあしらった生地を指しているのでしょう。
綸子は緞子にも似ているのですが、緞子よりは軽い。軽くて豪奢な布地であります。
どなたか綸子のチョッキを仕立てて頂けませんでしょうか。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone