佐野繁次郎とサック・コート

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佐野繁次郎は、日本の洋画家ですよね。洋画家であると同時に、装幀家でもあった人物。
それ以上に有名だったのが、「佐野調文字」の発明家。
たとえば、『銀座百店』の書き文字は、佐野繁次郎の手になるものです。また、少し前までの、「パピリオ」の文字も、佐野繁次郎が書いたものであります。
佐野繁次郎は、明治三十三年一月十二日。大阪、南久宝寺町に生まれています。実家は、
「古梅園」という墨問屋だったのですから、まんざら絵に関係がなかったのかも知れませんが。
大正四年には、当時、大阪にあった「丸善」で、画材一式を買い揃えたという。
大正九年に。画家となることを目指して、上京。滝野川に住んでいます。
大正十四年頃に。横光利一に紹介されて。これは、犬養 健に引きあわされたものと、伝えられています。
横光利一は、明治三十一年の生まれですか、二歳年長だった計算になります。横光利一が、
昭和二十二年に、四十九歳で世を去るまで、佐野繁次郎とは親友であったそうですね。
横光利一が、昭和五年に発表した長篇に、『寝園』があります。『寝園』は晩夏の軽井沢が背景だと考えられているのですが。この中に。

「トレスの鳥打に靴はベクチブ。ベンソンの時計に下つた鐵の鎖を少し覗かせたチヨツキ ー と此の地味なサツクコートの梶の風采は……………………。」

「梶」は、避暑地で鉄砲を撃っているので、このような恰好をしているわけです。昭和のはじめとしては、かなりハイカラであったと思われます。
横光利一は『寝園』の中で、「サツクコート」と書いています。「サツクコート」は、『寝園』の中に、外にも出てくるのですが。

「フランス語の本を小脇にかかへた、瀟洒としたサツクコートの青年の……………………。」

横光利一は、「サツクコート」と書いています。もちろん、s ack c o at の意味に違いありません。「サック・コート」は、アメリカ英語で、日本の「背広」に相当する言葉です。イギリス英語の、「ラウンジ・ジャケット」にあたります。
日本でも、昭和のはじめまでは、「サック・コート」の言い方があったものと思われます。
明治三十五年に、内田魯庵の発表した『社會百面相』にも、「サック・コート」が出てきます。

「………一人は柔らかな兎毛の珈琲茶の中折を戴き、粹な茶がかつた縞のサツクコートに雪のやうな真白な立襟を着……………………。」

これは二人連れの青年が歩いている場面。
明治期にも、「サック・コート」の表現があったのでしょう。というよりも、内田魯庵の
『社會百面相』は、サック・コートの出てくる比較的はやい例と言ってよいでしょう。
まず最初に「サック・コート」があって。それを後に、上下同じ生地で仕立てるようになって、「サック・スーツ」が誕生するわけであります。

「四つボタン型のサック・スーツは、25ドルの値段です。」

1895年『ニュウヨーク・ドラマティック・ニューズ』6月6日号には、そのように出ています。
1890年代のアメリカではすでに「サック・スーツ」が一般的になっていたことが窺えるに違いありません。それは多く、四つボタン型であった、とも。
どなたか1890年代のアメリカ型のサック・スーツを再現して頂けませんでしょうか。

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