珈琲とコオト

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

珈琲は、コーヒーのことですよね。
c off e e と書いて、「コーヒー」と訓むわけであります。でも、「珈琲」と書く人もいれば、「コーヒー」と書く人もいるわけです。
私の勝手な思い込みなのですが、「珈琲」のほうが美味しいような印象があります。「コーヒー」はごくふつうのコーヒーで。「珈琲」になると、豆を選び、豆を挽き、ちゃんとドリップで淹れてくれた珈琲を想像するのですね。
もし、それが「珈琲」なら、最初のひと口は、生で飲みたいものです。砂糖もミルクを添えないで。いわゆる「ストレイト」で。それから少し砂糖を。さらにはミルクを加えて。こうすると一杯の珈琲が、三つの味で愉しめるのではないか、と。まあ、結局のところ吝嗇なんでしょう。
なくて七癖、あって八十四癖と申しますが。コーヒーの頼み方が気になるお方に、片岡義男がいます。片岡義男著『珈琲が呼ぶ』に出ている話なんですが。
たとえば、喫茶店に入って、珈琲を注文する。このとき何というのか。
ある人は、いう。メニュウを見てから、「コーヒーでいいや」。
片岡義男の『珈琲が呼ぶ』を読むまで、意識していなかったのですが。それから気をつけていると。「コーヒーでいいや」組、少なくないんですね。
片岡義男に言わせますと、「コーヒーでいいや」はぶっきらぼうだ、と。むろんそれを口に出している客のほうでは、コーヒーを貶めようなどとは思っていない。つまりは、癖。習慣なんでしょう。
でも、あらためて日本語としての「コーヒーでいいや」を考えてみると。片岡義男の意見にも賛成したくなってくるのであります。
さて、ここからの片岡義男は実に親切丁寧で。では、何と註文すれば良いか。二十以上の具体例を挙げています。

「コーヒーをください」

「コーヒーを飲ませてください」

「コーヒーがいいです」

うーん。これから喫茶店に行く興味がまたひとつふえましたね。

うんと濃いコーヒーがお好きだったお方に、プルーストがいます。かの傑作『失われた時を求めて』の作家、マルセル・プルースト。

「プルーストは大変濃いコーヒーを二杯飲みながら、一緒に出されたクロワッサンを一つ食べる。」

フィリップ・ミッシェル=チリエ著『プルースト博物館』には、そのように出て。
また、プルーストは、巴里十七区レヴィ街のコーヒー専門店で買った「コルスレ」の豆以外は使わなかったらしい。それを挽いて、フィルターで淹れたと、説明されています。
ただし、プルーストはフィルターに、一滴一滴垂らすのを好んだので、一杯のコーヒーにとても時間がかかったとも。

「お仕着せすがたの店の従僕が私の短コートを受けとろうとすると、サン=ルーは言う。

ここでの「私」は、プルーストのことと考えて良いのでしょうか。
これまた、勝手な想像ですが。十九世紀末、騎手用のハーフ・コオトがあったものです。ダブル前で、生地の分厚いコオトが。
実際にそれがジョッキー・コオトではなかったかも知れませんが。
どなたかもう一度ジョッキー・コオトを復活させて頂けませんでしょうか。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone