クロッケーとシャツ

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クロッケーは緑の芝生の上で白球を打つ競技ですよね。1900年のパリ・オリンピックでは、正式競技に加えられてもいるそうです。

クロッケーは十三世紀のフランスにはじまるというから、古い。その頃には「ペル・メル」 pall mallの呼び方もあったらしい。これがやがてイギリスにも伝えられるんですね。

今もロンドンに行くと、ペル・メル・ストリートがあります。ペル・メル・ストリートをずっと行くと、突き当たりにペル・メル競技場があった。それで、ペル・メル・ストリートなんだそうです。

クロッケーはそれほど激しいスポーツではない。でも、頭を使う球技。よく、芝生の上のチェスと言われるのは、そのためなんだとか。

クロッケーの話が出てくるものに、『魯庵の明治』があります。明治元年に生まれた内田魯庵の著書。明治を知るには貴重な一冊でしょう。

「外国人の男や女が芝生でげき舌を弄しつゝクローケの勝負を争っているのが低い垣を越えて覗かれる。」

これは内田魯庵が少年の頃の話。明治十四年ころのことでしょうか。「クローケ」はたぶんクロッケーのことでしょう。場所は、築地。その時代の築地には外人居留地があって。そこに住む外人がクロッケーを愉しむこともあったのでしょう。

築地に外国人居留地があったために、東京でのハイカラは多く築地からはじまってもいます。ただ、横浜ほどの規模ではありませんでしたが。

たとえば、「築地ホテル」。これは明治元年の開業。七千坪の敷地に、102の部屋があって、一泊3ドルであったという。

『魯庵の明治』には、こんな話も出ています。

『君は贅沢なシャツを着ているナ』と云った。

これは明治二十三年の夏のこと。内田魯庵、二十三歳。この時、四万温泉に行く。四万温泉で、風呂に入る。と、その相客に声をかけられる。「贅沢なシャツ」。

その声の主が、三枝与三郎。今も銀座にある「サエグサ」の創業者。「サエグサ」はもともと築地にはじまった唐物屋。三枝与三郎はもちろんシャツの良し悪しに通じていたわけです。

明治二十三年の夏。内田魯庵はどんなシャツを着ていたんでしょうね。

そうそう、クロッケーには純白のシャツと決められているようです。

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