デフォーとテュルク

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デフォーは人の名前にもありますよね。たとえば、ダニエル・デフォーだとか。ダニエル・デフォーは、英国の作家です。
というよりも、『ロビンソン・クルーソー』の作家と言ったほうが分かりやすいでしょうが。
Defoe と書いて、「デフォー」と訓みます。
ダニエル・デフォーは、1660年に、ロンドンのクリップルゲイトに於いて、誕生。詳しい日にちは分かっていません。が、秋のことだったとも。
ダニエル・デフォーのお父さんは蠟燭職人だったと伝えられています。それも当時の獣脂を材料にした蠟燭だったようですね。
ダニエル・デフォーは、若い頃、今でいう秘密諜報部員だったとも。その秘密の命令を受けて、何度もスコットランドに旅しては報告を送ってもいます。
ダニエル・デフォーが『ロビンソン・クルーソー』を発表したのは、1718年のこと。デフォーが、五十九歳の時のことです。
ロビンソン・クルーソーにモデルがあったのは、ほんとうのことでしょう。スコットランドの水夫、アレグザンダー・セルカーク。
アレグザンダー・セルカークは、1711年に無人島から救い出されて、ロンドンに着いています。その後、多くのセルカークの談話が記事になったとのことです。
ダニエル・デフォーもまた、このセルカークの記事を読んだに違いありません。セルカークが無人島で、自分で作ったのもほんとうの話なのでしょう。
セルカークのお父さんは、毛皮屋だったそうですから、アレグザンダーは子供ながらに、お父さんの仕事を見ていたのだと思います。
ダニエル・デフォーは作家ですから、多くの小説をも書いています。ひとつの例ですが、1724年には『ロクサーナ』を出版。ダニエル・デフォー、六十四歳の時に。

「そこに現はるゝ小説が如何なる形式を取るかと云へばデフオーの書いた様なものに成るに相違ない。」

夏目漱石は、1909年の『文学評論』の中で、デフォーについて、長々と論じています。
夏目漱石は英文学者でもありましたから、ダニエル・デフォーについて語るのも当然だったでしょう。たぶん漱石は、日本ではじめてデフォーを正確に論じたお方でもあったでしょう。

ダニエル・デフォーを愛読したフランス人に、ジッドがいます。もちろん、アンドレ・ジッドのことです。

「ただピアノの練習と読書(『クレイハンガー』と『シングルトン船長』)だけがこの虚無の一日を救ってくれる。」

1912年1月の、『日記』にそのように書いています。この『シングルトン船長』とは、ダニエル・デフォーの小説なのです。
アンドレ・ジッドは英文で、『シングルトン船長』を読んだとのこと。
1914年の4月、アンドレ・ジッドはトルコに旅しています。

「この二日目に、私は着物を三着買った。一つは緑、もう一つは赤紫色の。いずれも金糸の細縞入り。緑の方には紫色の光沢がある。これは瞑想や研究の日に着るにふさわしい。」

『ジッドの日記』に、そのように書いてあります。これだけではよく分かりませんが。ただ、トルコふうの衣裳だったことは間違いないでしょう。
「テュルク」。turc 。
ジッドはたぶん自宅で、書斎でテュルクの衣裳を着たに違いありません。
どなたかテュルクのシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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