シーボルトと印半纏

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シーボルトは、ドイルの医者のことですよね。もちろん、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトのことであります。
シーボルトは1796年2月17日に、ドイツ、バイエルン州、ヴェルツブルクに生まれています。お父さんも、お祖父さんも、医者であったそうです。
シーボルトが日本にやって来たのは、安政六年のこと。西暦の1823年の時であります。シーボルトは二十七歳だったわけですね。
シーボルトははやくから日本に興味があったので。ただ、当時の日本は鎖国なので、オランダ人しか滞在できない。そこでドイツ人のシーボルトは、「オランダ人」を自称したのあります。

「江戸幕府が私の日本滞在の延長を要望していることを伝えてきた長崎奉行からの手紙に返事を書いた。」

1861年1月2日の『シーボルト日記』に、そのように書いてあります。
長崎でのシーボルトは、異国人としては特別待遇だったようです。それは日本人の難病を治してくれたから。
シーボルトだけに限っては、長崎市内に出ても、お咎めがなかった。
そうでもなければ、「鳴滝塾」の別宅が許されるはずはなかったでしょう。鳴滝塾は、別宅であり、研究所であり、医学塾であったのです。日本の西洋医学は、鳴滝塾からはじまったと言って、過言ではないでしょう。
鳴滝塾の生徒の中には、鳴滝塾に寝泊まりする者もあったくらいですから。
鳴滝塾のことをシーボルトは「別荘」だと考えていたらしい。その家賃は、年に五両半と一分三匁だったそうですね。これもまた当時としても破格の金額だったとのことです。日本庭園と、離れのある、広い邸宅だったそうですから。
鳴滝塾の生徒のひとりに、美馬順三という人物がいた。この美馬順三、ドイツ語に堪能で、シーボルトのお母さんに宛てて手紙を書いているんだそうです。文政七年の二月に。
この話は、森 銑三の随筆『シーボルト』に出ているのですが。
美馬順三は手紙に添えて、日本の小函を贈っています。こんな細かい話はやはり森 銑三ならではことでしょう。


銑三が、昭和十三年に発表した随筆に、『印半纏』があります。随筆と言っていいのか、短篇と言っていいのか、創作的な随筆になっています。物語の主人公は、「新吉」。

「出してくれたのを見ると、それは真新しい印半纏だつた。背中には、菱形の中にKの文字を二つ列べたマークが白く抜いてある。」

これは少年時代の森 銑三の想い出なのでしょうか。
西洋にブレイザーがあれば、日本には印半纏があります。時には印半纏もいいものです。
さて、お揃いの印半纏を着るために倶楽部を作ろうではありませんか。

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