ノラと古典

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ノラは、よくつける名前なんでしょうね。
百閒の猫も、「ノラ」でしたね。内田百閒の飼い猫。百閒はことのほか「ノラ」を愛した。愛して愛して、愛し抜いた。その「ノラ」がいなくなった。いつになっても帰ってこない。百閒は神経衰弱ノイローゼ。
このあたりの事情は、著者『ノラや』に詳しい。「ノラや……、ノラや……」最中の百閒に電話をかけたのが、義孝。高橋義孝。内田百閒を師と仰ぐ、義孝。電話をかけて。
「ノラは今頃、三味線になってるでしょうね……」
百閒の怒ること、怒ること。しばらくの間、義孝を破門状態に。でも、これは「師匠愛」だったかも。「ノラや……、ノラや……」があんまりなので。けれどもそれを百閒に誰も言われない。で、義孝が。
内田百閒の師匠が、夏目漱石。高橋義孝の弟子が、山口 瞳。山口 瞳の弟子が、常盤新平。つまり、漱石、百閒、義孝、瞳、新平の順になるわけですね。ここに共通するのは、師匠の文章を絶対視したことでしょうか。神聖にして犯すべからず、と考えていたのでしょうね。
高橋義孝。日本のドイツ文学者としては、とびきりの洒落者でありました。絶対に洒落者とは感じさせないくらいに、洒落者でした。本物の洒落者とはそんなものなんですね。その高橋義孝に、『洋服とネクタイ』という随筆があります。この中に。

「生地や柄もあれこれと試してみたが、結局いつまでも飽きがこないのは、昔からある織り方のものや柄である。紺のウーステッドや濃い鼠のフラノのチョーク・ストライプ………」。

と、はじまって、えんえん服装美学を語っています。
なにか古典柄の服を着て。『ノラや』の初版本を探しに行くとしましょうか。

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