横浜と四つボタン

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横浜は、魅力の多い街ですよね。第一、食べ物が美味しいではありませんか。また、歩いて愉しい道も少なくなくて。
そしてもうひとつ、歌が似合う街でもあります。「横浜」を歌いこんだものは、星の数ほどもあります。『ブルーライト・ヨコハマ』だとか。
『ブルーライト・ヨコハマ』は、いしだ あゆみ が歌って、たちまち拍手喝采。作曲は、筒美京平。作詞は、橋下 淳。橋下 淳は筆名。本名は、与田準介で、この与田準一のご子息。詩に長けているのも、血筋でしょう。
与田準介は、いや橋下 淳は、ある日、いしだ あゆみと、横浜を歩いて。それから東京に帰って、一気呵成に『ブルーライト・ヨコハマ』を書いたという。
明治の横浜で忘れてならない偉人は、美沢 進。当時の「横浜商法学校」の校長だった人物。これは、福澤諭吉の推薦によるものだった。美沢 進は、「商人は紳士たるべき」という考えのお方で。毎日、学校にはフロック・コートにシルク・ハット、手に細巻きの傘を携えて、登校。今も、横浜には商人で、紳士が多いのは、美沢 進の薫陶によるものでしょう。
横浜が出てくる小説に、『自由学校』があります。獅子文六が昭和二十五年に発表した物語。

「南京街の汚いバラックへ入って、ワンタンを食べた。そこが横浜で一番うまいワンタンを食わす家だといって、二人が案内したのである。」

獅子文六は生まれも育ちも、横浜。横浜の街は自分の庭だったお方。詳しいはずです。同じく『自由学校』に、こんな描写が出てきます。

「菱刈老人、今日は、珍しく、和服ではなく、四つボタンという、旧式な背広を、着ている。」

そもそもの歴史を言いますと。最初は、片前の五つボタン。それが省略されて、四つボタン。さらに略された、三つボタン。戦後、アメリカの影響で、二つボタンまで、登場したものです。
時にはクラッシックな四つボタン型の上着で、横浜を歩いてみたいものですね、

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