ボウ・タイ(bow tie)

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最小で、最大の魅力を持つネクタイ

ボウ・タイが蝶ネクタイであるのは、言うまでもない。時には、「バタフライ」と呼ぶこともある。結んだその形が「蝶」に似ているからに他ならない。
これは日本だけのことではなく、多くの国でやはり「蝶」を連想するらしい。フランスで「パピヨン」papillon というのをはじめとして、ボウ・タイを「蝶」で表現する国は少なくない。
今日のボウ・タイが生まれたのは、1894年のイギリスにおいてだと考えられている。ボウ・タイの直接の前身は、クラヴァットである。
十九世紀の紳士はまず例外なく、シャツの上からクラヴァットを巻いたものだ。このクラヴァットの結び方にも数多くの種類があった。が、十九世紀も末になると次第に簡略化される。カラーの上からニ、三回巻きつけて、その両端を首の前で蝶結びにして仕上げることが一般となる。
これなら面倒なく、自分ひとりでも結べたからであろう。このクラヴァットの前の結び目だけが独立して、ボウ・タイとなったのである。

「ボウ・タイは、ソフト・フロントのシャツに結ばれるものである。シャツの襟はスタンド・カラーであり、その先端は少し折り曲がる。」

1895年『テイラー・アンド・カッター』誌の解説文の一節である。この場合の「カラー」は、おそらく今のウイング・カラーに相当するものであろう。そして当時の紳士としては新鮮であったハード・スターチではないシャツにふさわしいネクタイであったものと思われる。
1895年とはボウ・タイ登場の翌年のことであり、ごく初期のボウ・タイの姿であろう。と同時に、ボウ・タイの出現が、セミ・スターチト・シャツと密接に関係していることをも窺わせる。
十九世紀末、シャツはゆっくりとハード・スターチから、セミ・スターチへと移りはじめる。そのセミ・スターチのシャツには結ぶには、クラヴァットはいささか大仰すぎたのかも知れない。そう考えるとボウ・タイもまた、時の流れの必然でもあったのだろう。
1894年のボウ・タイは当然、バタフライ型であった。が、1896年には「バットウイング」型があらわれている。コウモリの羽根のようなタイ。つまりはより大型のボウ・タイであったのに違いない。
この時代のボウ・タイはクラヴァットの延長でもあるから、白、オフ・ホワイト、パール・グレイなどが主体であった。が、1897年には柄物のボウ・タイがあらわれている。それはネクタイの表面に柳も葉を散らした文様であったという。柄物のボウ・タイが作られたということは、取りも直さず人気の高さを物語っている。
1904年にボウ・タイにとっての良い風が吹く。そのきっかけはプッチーニの『マダム・バタフライ』。1904年、ミラノ「スカラ座」で、初演。この時、『マダム・バタフライ』を巡って賛否両論が起きる。そしてプッチーニを応援する人たちはこぞってボウ・タイを結んだのだ。うそのような本当の話である。

「彼はやや大げさな、ボウ・ネクタイを結んでいた。」

これはスタックプールの『モンテ・カルロ』に出てくる一節。スタックプールは英国の医師で作家であった人物で、1913年の発表。その頃には「ボウ・ネクタイ」の表現もあったのだろう。

「結びつけのーー自分では結ばなくてもよいようなーー安物の蝶ネクタイ……」

これは『アフリカ旅商人の冒険』の一節。1934年に、エラリー・クイーンが発表した物語。ある男の持物を探している場面。おそらくは、「アジャスタブル・タイ」のことであろう。すでに蝶結びがしてあって、あとは長さを調節してフックで留めるだけの蝶ネクタイ。これはもともと制服用に考えられた略式で、紳士用ではない。
昔、イギリスの政治家に、サー・ロバート・ジョン・グラハム・ブースビーという人物がいた。この人もまた、常に水玉模様のボウ・タイを愛用したという。

「細い先の割れた黒サテンのネクタイを結びかけて、一瞬手を止めたボンドは……」

1953年発表の『カジノ・ロワイアル』の一節。もちろん、イアン・フレミング作。これはおそらく、「ポインテッド・エンド・ボウ」のことと思われる。
ドットのボウであろうと、ポインテッドであろうと、洒落者は必ず手結びにするべきである。

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