紀一と絹襟巻

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紀一という人物がいたんだそうですね。紀一にもいろんな訓み方があるんでしょうが。この場合には、「きいち」。斎藤紀一。
斎藤紀一は、斎藤茂吉のお父さん。北 杜夫からすれば、お祖父さんということになります。斎藤紀一は、「青山脳病院」の創業者でもあります。
斎藤紀一はある時、斎藤茂吉にこんなことを言ったそうですね。

「夏目金之助といふ名だが、非常な學織らしい。英語の發音なども西洋人そつくりだ。」

「夏目金之助」が、漱石であるのは言うまでもありません。それにしても、どうして「英語の發音」までも知っていたのか。
「夏目金之助」と、斎藤紀一は、ヨーロッパから日本に帰る船で一緒だったから。漱石は自分の本の中で、「拙い英語で………」などと言っているのですが。斎藤紀一に言わせと、なかなかどうしての、英語遣いだったことが分かります。
斎藤茂吉は1923年に、ローマへ行っています。毎日、ヴァチカンに通って。サン・ピエトロ寺院の天井画を。もちろん、ミケランジェロの作。ただ、天井画なので、頸が疲れる。と、守衛が、鏡を貸してくれて。この鏡を使って、ミケランジェロの天井画を鑑賞したそうです。
斎藤茂吉は、『襟巻』と題する随筆も書いています。

「私は冬になると絹の襟巻をして獨り勉強をしてゐる。」

これが、『襟巻』の第一行。ここから………。それはともかく、シルクのマフラー、佳いですね。なかなか「勉強」とまではいきませんが。

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