ゴッホとコル・ノワール

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ゴッホは、説明の必要がないですよね。ヴィンセント・ファン・ゴッホ。1853年、オランダに生まれた画家であります。
ゴッホを描いた男が二人います。ひとりはゴッホ自身。もちろん、自画像。ゴッホもまた多くの自画像を遺しています。
そして、もう一人ゴッホを描いたのが、ロオトレック。ロオトレックは、1864年、フランスのアルビに生まれています。
年齢はひとまわりほどロオトレックのほうが下ということになるでしょう。いや、年齢はさておき、同じ時代の画家として、ゴッホとロオトレックは対照的です。ゴッホの父は牧師。ロオトレックの父は貴族。それも古い時代からの大貴族。ゴッホは生前、ほとんど絵を売ることができなかった。ロオトレックは生前、ほとんど絵を売る必要を感じなかった。
けれども、ロオトレックはまったく無名のゴッホを評価していて。だからこそ1887年に、『ファン・ゴッホの肖像』を描いたのでしょう。この貴重な絵は現在、アムステルダムの「国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館」蔵となっています。
一方、ゴッホのほうでも。

「ゴッホはロートレックの「デホー嬢」に感心してほとんど模写に近い「ガッシェ嬢」を描いている。」

式場隆三郎は『放蕩の貴族 ロートレック』と題して、そのように書いています。昭和二十六年『藝術新潮』十一月号に掲載された文章です。
ある時、絵の仲間が、ゴッホの絵の悪口を言ったことがあるらしい。すると、ロオトレックはその男に対して、「決闘を申し込む!」と怒って。まわりの友達が止めるのに苦労したことがあったという。絵の世界でも、「英雄にして英雄を知る」ということもあるのかも知れませんね。
ロオトレックがベル・エポック期のポスターの革命者だったのは、言うまでもないでしょう。第一、当時のポスターは「藝術」とは見做されてはいなかったのですから。逆に申しますと、ポスターを「藝術」にしたのは、ロオトレックだったのです。
それは、ロオトレックが1891年に描いた『ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ』。
「ムーラン・ルージュ」は、十九世紀末の、巴里の社交場、人気のキャバレエだったのです。この一枚の、大胆この上ない構図が、それ以前のポスターに革命を起こした瞬間でありました。
「ラ・グーリュ」は評判の踊り子で、たいていの客はラ・グーリュの踊りが目当て。そのラ・グーリュを白で中央に据えた、思いもよらない構図。
1892年に写された一葉の写真があります。ジュール・シェレのポスターの前に、トレモラダと並んで立つ、ロオトレック。トレモラダは、「ムーラン・ルージュ」の支配人補佐だった人物。
ジュール・シェレはロオトレック以前のポスター画家。
この時、ロオトレックは当時の習慣に従って、フロック・コオトを着ています。が、その襟には、黒いヴェルヴェットが張られています。コル・ノワール。もともとは英國貴族の服喪からはじまったデザイン。
フランス革命期のギロチンへの哀悼の意を、ブラック・ヴェルヴェットの上襟で表したもの。それが時代とともに貴族的ふるまいとされるようになったのです。
もっともロオトレックは貴族の中の貴族でありましたからね。

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