大島とオーヴァー・スェーター

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大島。ひと言で大島と言いましても、いくつかの大島がありますよね。
東京から近いところでは、伊豆大島でしょうか。たとえば、竹芝桟橋から船が出ています。夜、竹芝桟橋から船に乗ると、次の朝には大島を見ることができます。
今はさておき。ひと昔前の大島は、なんといってもアンコ。大島のきれいなお嬢さんを、アンコ。もともとは、「あの娘」で、ここから訛って、アンコ。当時、アンコにはアンコの服装がありまして。
井伏鱒二の随筆『伊豆大島』には、こんなふうに出ています。

「筒袖の著物に幅のせまい黒繻子の帯をしめ、黒繻子のふちをとつた前掛をしめてゐる。」

井伏鱒二は、昭和十一年に伊豆大島へ行っています。それより少し前の、昭和八年に大島に渡ったのが、久女。俳人の、杉田久女。もともと久女の場合、筑前大島なのですが。
九州、佐賀、玄海町、神湊に立つと、目の前に筑前大島が見えます。連絡船に乗ると、二十五分ほどで、大島に。ここは古代伝説の多い土地でもあるらしい。

大島の 港はくらし 夜行虫

杉田久女は、大島でそんな句を詠んでいます。久女はたしかに俳人でありました。が、その一方で随筆を書いています。たとえば、『出石まで』とか。
出石 ( いづし ) は豊岡に近い町。今は、蕎麦で知られる所でも。『出石まで』は、大正十四年の発表。どうして久女はこの頃、出石に行ったのか。久女のお母さんが出石の出であったから。
久女は豊岡駅で列車を降り、そこから馬車で出石に向っています。

鼠色オーバースェタの若い馭者は………………………

杉田久女は『出石まで』の中に、豊岡駅から乗った馭者の服装をそんなふうに描いています。久女は、「オーバースェタ」と書いたいるのですが。
オーヴァー・スェーターを実際に着た人に、荒畑寒村がいます。

「尤も、アンダウェヤを二枚、シヤツを二枚、オバアスウェタアを一枚、これに服を着て外套を着てゐるのだから暑いのも無理はないかも知れぬ。」

荒畑寒村著『ロシアに入る』に、そのように出ています。大正十三年に。時代としては、久々が豊岡駅で見た馭者のオーヴァー・スェーターと、ほぼ同じ頃でしょう。荒畑寒村は、「オバアスウェタア」と書いているのですが。
荒畑寒村はオーヴァー・スェーターでありながら、なにかの上着の下に着ているらしい。まあ、冬のロシアは寒いでしょうから。
もし今の時代なら、厚手のカーディガンにも近いものであったものと思われます。
大島に向う船の甲板には、最適でしょうね。

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