麦とムートン

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麦は、植物の名前ですよね。古代から人類が食用としてきた身近な植物であります。
麦にもいろんな種類があるらしくて。大麦があり、小麦があり、ライ麦………。
大麦からはビールやウイスキイが。小麦からは小麦粉が。ライ麦からは、ライ・ウイスキイが。
麦と名画ということになりますと、『麦秋』でしょうか。昭和二十六年に、小津安二郎が完成させた傑作。昭和二十六年十月三日に一般公開されています。
主演はもちろん、原 節子。原 節子の美しさを観せるための映画だったような気がします。原 節子のいちばんお美しい時期でもあったでしょう。
『麦秋』の脚本は例によって例のごとく、小津安二郎と野田高梧との共作。
小津安二郎は前作の『宗方姉妹』が終ってすぐ、『麦秋』の脚本にとりかかっています。
茅ヶ崎の定宿「茅ヶ崎館」に、野田高梧とふたりで籠って、仕上げるわけです。

「朝食中にママくる  蒲鉾  奈良漬をもらふ
 カード式に場面ならべてみる  仲々難渋 」

昭和二十六年二月一日 木曜日の『小津日記』には、そのように書いています。
小津安二郎が凝りに凝って模索している様子が窺われるでしょう。

「雨になる  脚本ゆきなやむ  大原くる  晩酌  一升をあける 」

同じ二月の九日 金曜日の『小津日記』の全文。
小津安二郎と野田高梧ふたりで一升壜が百本空いたら、脚本完成。そんな伝説があったくらいですからね。
小津映画は脚本ができたら半分完成したようなもの。これは信じてよい伝説でしょう。ことに練りに練った科白。小津安二郎の場合、役者が勝手に科白を変えることは決して許さなかったという。
映画『麦秋』の中で。間宮紀子に扮する原 節子の科白に。

「………ほんとはねお姉さん、あたし、四十になってまだ一人でブラブラしているような男の人って、あんまり信用できないの」

もちろん本番の前に、練習としての「本読み」が。原 節子が、その科白を言う。と、監督の小津が続けてチャチャを入れる。

「でも、小津さんだけは別よ」。

すると、原 節子はもちろんスタッフ全員、大笑いとなったという。

「このところ  原節子との結婚の噂しきりなり 」

昭和二十六年十一月十七日 土曜日の『小津日記』に、そのように書いています。
この頃、新聞雑誌が盛んに「原 節子、小津監督と結婚か?」の記事を載せていた時代。
当のご本人はまるで他人事のようだったのでしょう。
麦は麦でも小説に出てくる麦に。『一粒の麦もし死なずば』があります。
1921年に、アンドレ・ジイドが書いた自伝的小説。ただし、1921年の発表時には、
作者の名前は伏せられていたのですが。この中に。

「僕らは彼をムートン ( 羊)と呼んでいた、かれが着ている白い羊毛の外套のゆえだ。」

ムートン m o ut on はもともと、フランス語。英語なら「シープスキン」でしょうか。
たいていは羊の一枚皮で仕立てられる外套ですから、暖かいことこの上もなしです。
1930年代までは多く、飛行士にユニフォームとしても用いられたものです。
どなたか現代版のムートンのコートを仕立てて頂けませんでしょうか。

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