フランソワは、フランス人生
男性の名前にもありますよね。
たとえば、フランソワ・ラブレーだとか。
フランソワ・ラブレーは1494年頃の生まれではないかと、考えられています。
今からざっと五百年前のお方ですから、よく分ってはいません。
でも、今に『ガルガンチュワ物語』と、『パンタグリェル物語』とが遺されていること、間違いありません。
フランソワ・ラブレーは医者であり、また作家でもあったのでしょう。ちょうど森 鷗外が医者であり作家であったように。
では、小説とは何か。それは創作であり、作り事であり、華麗なるウソであります。
どうせウソなら盛大なるウソであるべきだ。
フランソワ・ラブレーはそんなふうに考えたのでしょう。
少なくとフランソワ・ラブレーの物語は盛大この上ない小説になっています。
「胴着を作るためは白繻子が八百十三オーヌも裁たれ、腰のかがり紐のためには、一千五百九匹の犬の皮が用いられた。」
渡辺一夫の名訳であります。
これはガルガンチュワの着る服装を作る時の生地として。
ここでの「オーヌ」は、約1、8メートル。ということは胴着一着作るのに、およそ千五百メートルの布地が必要だったわけですね。
渡辺一夫が『ガルガンチュワ物語』を日本語に訳したのは、1941年のこと。1941年の日本には、中世フランス語の辞書はなかったでしょう。
渡辺一夫は不可能を可能にした学者だったと言えるでしょう。
ここでの「胴着」は、「プールポアン」pourpint のこと。また、「かがり紐」は、「エギュイエット」aiguillett のことです。
中世衣裳の勉強にもなりますね。
それというのも、渡辺一夫訳の『ガルガンチュワ物語』には、詳しい「略註」が添えられていますから。
また、巻末には、フランソワ・ラブレーの年譜まで加えられています。至れり尽くせりとは、このことでしょう。それも1941年の戦争中に。
渡辺一夫の年譜によりますと。1536年頃のフランソワ・ラブレーは一時期、ロオマに滞在していたらしい。
「かたじけなくも当地なる拙者に給わりました三十エキュがほとんど残り少なになりかけてきたからでございますが、」
フランソワ・ラブレーはそんな内容の手紙を、デスチサック宛の手紙に書いてあるとのこと。ここでの「当地」がロオマであるのは言うまでもありません。
1536年2月15日付の手紙に。
このロオマ滞在中のフランソワ・ラブレーは、「マコン殿」の屋敷に世話になっていたようですね。
「マコン殿」は当時の駐ロオマ、フランス大使だったそうです。
ラブレーが出てくる物語に、『艶笑滑稽譚』があります。オノレ・ド・バルザックが、1832年に発表した小説。この中に。
「われらがいと優れたる同郷人フランソワ・ラブレー師が、」
そんな一節が出てきます。この『艶笑滑稽譚』自体、バルザックが、フランソワ・ラブレーに触発されて書いた物語だと考えられているのですが。
フランソワ・ラブレーは、シノン近郊のお生まれ。
バルザックは1799年5月20日、トゥールに於いて誕生。シノンとトゥールはそれほど離れてはいません。
またバルザックの『艶笑滑稽譚』にはこんな描写も出てきます。
「代訴人は胴着の切れ込みのような、大きな口を開け笑いながら叫んだ。」
ここでの「切れ込み」は、「ファンテ」fente のこと。
英語でいうところの「スリット」。
男のウエイストコオトの裾口に、スリットが添えられることもあるでしょう。
また、パンツの裾にスリットが入ることも珍しいことではありません。
どなたかファンテの美しいチョッキを仕立てて頂けませんでしょうか。