フランソワは、男の人の名前にもありますよね。これがフランソワーズとなりますと、女の人の名前になるのでしょう。
フランソワ。フランスの男性に多い印象がありますね。
フランソワ・クープランだとか。フランソワ・クープランはバロック期の作曲家。『クラブサン曲集』はよく識られているところでしょう。
映画のほうでは、フランソワ・トリュフォーがいます。
フランソワ・トリュフォーは1932年2月6日、巴里に於いて誕生。
1959年の映画『大人は判ってくれない』は、代表作。代表作であると同時に、第一作でもあります。
『大人は判ってくれない』は、トリュフォーの少年時代を描いた内容になっているのですが。
トリュフォーの『大人は判ってくれない』に感動した作家が、ジャン・コクトオ。
「優秀なるフランソワ。君の映画は傑作である。奇跡のようなものである。」
そのようなメッセージを贈っています。トリュフォー、二十七歳の時の映画なのですね。
『大人は判ってくれない』は1959年「カンヌ国際映画祭」で、監督賞を受けています。
この「カンヌ国際映画祭」の祝賀会には、ジャレ=ピエール・レオーも参加しています。
ジャレ=ピエール・レオーは、主役を演じた少年。
トリュフォーは1958年に、主役少年を公募。その中から、当時十三歳だったレオーを選んでいるのです。
「最初の出会いから、わたしは、彼が、少年ながら、集中力もあり、おびえを克服する精神もある天性の俳優であることを感じた。」
『トリュフォー最後のインタビュー』の中で、そのように語っています。
トリュフォーは1984年10月21日、五十二歳で世を去っているので。
1984年の映画『終電車』が遺作となっています。
『終電車』には、映画監督の役で、トリュフォー自身が出てもいるのですが。
トリュフォーが興味を持っていた映画監督に、ヒッチコックがいます。
「思うに、ヒッチコックの作品ほど世界的に影響をおよぼしている映画もないのである。」
トリュフォーは『定本ヒッチコック映画術』の中に、そのように書いているのです。
この『定本ヒッチコック映画術』は、トリュフォーがヒッチコックにインタヴュウして、纏めた一冊なのです。
トリュフォーは1966年に50時間のインタヴュウを、ヒッチコックに行っているのです。
「遠景はミニチュアだが、ケイリー・グラントが近づいて這い上がるところは部分的にセットをこしらえた。」
ヒッチコックはトリュフォーの質問に、そのように答えています。1959年のヒッチコック映画『北北西に進路を取れ』のセットについて。
主役がケイリー・グラントであったのは、言うまでもありません。ケイリー・グラントのスーツの着こなしがたっぷり愉める映画にもなっています。
「だから話が進むにつれて、身につつまされるところも出てくるし、いずれにせよきわめて明晰なところがトリュフォーという人物の眼のたかさを示している。」
吉行淳之介は昭和四十年に発表した随筆『トリュフォーの『やわらか肌』を観て』の中に、そのように書いてあります。
トリュフォーが出てくる研究書に、『男らしさの歴史』があります。2011年に出た、J・J・クルティーヌ編の讀物。
「なぜなら、トリュフォーにとって、男優は映画によって高揚させられた自らの美をつうじて、自由をつかもうとする一個の身体となり、稲妻のように大空を走る純粋なエネルギーの運動、」
私には難しすぎる文章なのですが。あるいは、また、こんな文章も出てきます。
「一九六0年代の革ジャン族や一九七0年代の不良のような、」
ここからひとつ分かるのは、「革ジャン」のことをフランスでは、「ブルゾン・ノワール」と呼ぶらしい。またひとつ勉強になりました。
どなたか1960年代のブルゾン・ノワールを作って頂けませんでしょうか。