リスボンとリネン

リスボンは、ポルトガルの都ですよね。
昭和三十五年にリスボンに旅した作家に、三島由起夫がいます。

「何ていふ美しく町だらう! あの冬のきらめくばかりの日光と、美しい公園と家々を飾るタイル細工と、モザイクの歩道とは、ありありと目に残つてゐる。」

昭和三十六年『アサヒカメラ』四月号に、そのように書いてあります。
この時のリスボンの旅は、遥子夫人と一緒。
三島由起夫はこの旅ではじめてミノックスの写真機を扱ったらしい。そのせいなのかどうか。遥子夫人の記念写真は、思うような出来映えではなかったとのことですが。
ポルトガルは古い時代から日本とはお付きあいのある国。
たとえば、ビロード。これはポルトガル語の「ヴェルード」veludo から来ているんだそうですね。
ビロードは天文年間に、ポルトガル船によって運ばれて来たものなんだとか。
天文年間は、西暦の1532年から、1555年までの間。今からざっと五百年以上前の話になるのですが。

「リスボンに帰れば、巡査軍人の小倉服、福岡市名物の菓子玉子の黄身で作った甘い甘い素麺等、「これが九州に伝ったんじゃないの」と云わせる品がいろいろある。」

昭和六年にリスボンに旅した市河晴子は、『リスボン行』という紀行文の中に、そのように書いています。
市河晴子は、英文学者、市河三喜の奥様。
このリスボン行きもまた、市河三喜との二人連れだったらしいのですが。
「玉子の黄身で作った甘い甘い」とは、たぶんけいらんそうめんのことかと思われるのですが。
けいらんそうめんはさておき、「小倉」もまたリスボンから来ているのでしょうか。

「王族のための玩具や娯楽用品も沢山陳列されているが、その中に今のパチンコやコリント・ゲームの原型と見なすべきものもある。」

大宅壮一の随筆『ブラジルの故里、ポルトガル』には、そのように出ています。
これは昭和二十九年の記録として。パチンコもポルトガルからの伝来だったのかも知れませんね。
リスボンが出てくる紀行文に、『ウルストンクラフトの北欧からの手紙』があります。
メアリ・ウルストンクラフトは、英国の作家。
1795年に、ポルトガルに一人で旅をしているのです。
その時の記録が、『北欧からの手紙』。たしかに手紙ではありますが、実際に投函されたものではありません。
あくまでもも書簡体としての紀行文になっています。

「リスボンに赴く時は、心の余裕が疲れを紛らわせてくれました。」
そんなふうにも書いてあります。
ウルストンクラフトはリスボンばかりでなく、コペンハーゲン、オスロをはじめ、北欧をほぼ一周しています。

「ウエッジウッドの白い陶器で輝いているばかりでなく、銀製の器には、優雅と言うよりはまさしく重厚なものもあります。リネン類は白くかつ上質です。」

これはノルウェイでの見聞として。
どの国であろうと、十九世紀までの上流階級では、リネンが不可欠だったことが窺えるでしょう。
どなた白い上質のリネンでスリーピース・スーツを仕立てて頂けませんでしょうか。