フレッドは、人の名前にもありますよね。
たとえば、フレッド・アステアだとか。
フレッド・アステアは1899年5月10日に、アメリカのオマハに生まれています。
ヘミングウェイも1899年7月21日の誕生。ヘミングウェイとアステアは同い歳だったんですね。
アステアのお父さんは、フレドリック・オースタリッツ。お母さんは、アン。お父さんは、オーストリア人だったという。アステアがなんとなくヨオロッパ人らしいのも、そのためなのでしょうか。
アステアは二歳上にお姉さんがいて、アデール。
アデール・アステアは小さい頃から藝達者で。弟と組んでよく芝居に出ていたらしい。
1905年には、『シラノ』に出演。
「このときわたしは、人生で初めてトップ・ハットをかぶって登場した。トップ・ハットをかぶって生まれてきたかのようだというイメージ、何年ものあいだわたしは払拭しようとがんばってきたのだけれど、生まれて
つきとは言わないもそれに近いところはあったのだな。」
アステアは『フレッド・アステアの自伝』の中に、そのように書いてあります。
ここでの「トップ・ハット」が、シルク・ハットのことであるのは、もちろんでしょう。
さらに古くは、「ビーヴァー・ハイハット」とも呼んだものです。ビーヴァーの毛皮で作られていたので。
その後、ビーヴァーが絶滅危惧動物になったので、その代用品として、ヴェルヴェットの一種が使われるように。それで、「シルク・ハット」と。
ビーヴァーの毛皮は雨にも、強い。でもヴェルヴェットは雨に大変弱い。
それで紳士たちがシルク・ハットのために傘を持つようになったのでです。で、シルク・ハットをかぶっていない時には、多少の雨でも傘を開くことがないのですね。
これはウソのようなホントの話。
初期のアステアは、むしろロンドンで人気があって。そのために、アステアは何度もロンドンに渡っています。また、アステアは舞台と舞台の合間に、熱心にウインドウ・ショッピングを。アステアの着こなしがなんとなく英国的なのは、おそらくそのためなのでしょう。
1926年にも、アステアはロンドンの舞台に。「エンパイア劇場」に出演。この時の観客には、英国王室の王族方がいらしていた。
舞台が終って、アステアが楽屋で寛いでいると、客が。なんと、皇太子一行。普段着のアステアはあわててしまって。
この時の皇太子は、後のウインザー公爵。楽屋を見渡した皇太子は、言った。
「うーん、良い考えだ。」
アステアは着換えの時間節約のために、すべてのトラウザーズにあらかじめブレイシーズを留めてあったのを見て。
「さっそく、従者に言っておこう。」
フレッドが出てくる短篇に、『じゃがいもエルフ』があります。
1929年に、ナボコフが書いた小説。
「そしてフレッド・ド・ドブスンは、悲しげに、人が良さそうに小さな手を広げて見せるのだった。」
フレッド・ド・ドブスンは、手品師という設定になっているのですが。
またナボコフが1932年に発表した短篇に、『重ねた唇』があります。
「赤いフラシ天のソファ。二人の紳士。」
これはとある繁華街のカフェの椅子として。
「フラシ天」は、日本語。英語では、「プラッシュ」
plush 。フラッシュは毛足の長いヴェルヴェット。
ソファばかりでなく、帽子にも。その昔、ビーヴァーの代用品だったのが、プラッシュだったのですね。
どなたか赤いプラッシュで上着を仕立てて頂けませんでしょうか。