フィリップとフウトル

フィリップは、人の名前にもありますよね。
ふつうFhilip と書いて「フィリップ」と訓むことが多いようですが。
日本とも関係深いフィリップに、シーボルトがいます。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。
シーボルトは1796年2月17日に、ドイツのバイエルンに生まれています。
シーボルトが日本にやって来たのは、1823年のこと。シーボルト、二十七歳の時でありました。
その年の8月11日に、長崎港に着いて。
この長崎でシーボルトが出会うのが、楠本 瀧。
1823年9月のことだったという。
楠本 瀧は、長崎「引田屋」の遊女「其扇」(そのぎ)だったとか。
これには異説がありまして。実は遊女ではなかった、と。当時、日本女性が異人に会うのは固く禁じられていて。それを可能にする方法として、仮に「引田屋」の遊女として役所に届け出たとの説もあります。
このあたりの事情は、今なおよく分ってはいないらしい。
ただ、シーボルトと瀧との間に、いねが生まれているのは間違いありません。
楠本いね。文政十年(1827年)五月六日のこと。
楠本いねは成長して、後に日本初の婦人科の女医になっているのは、ご存じの通り。明治三年のことであります。

「可愛いおいねがとても元気で、明るく、言葉もよく話せて、毎日、お前様のことばかり尋ねるのです。それに他のすべての子供たちよりもはるかに賢くなりました。」

楠本 瀧は、シーボルト宛の手紙にそのように書いています。1831年11月27日の日付になっているのですが。
これは多少割引の必要もあるのかも知れません。
でも、いねが特別利発だったのは、その通りでしょう。
とにかく、いねは五歳の時に、蘭学の本が読めたと伝えられていますから。
楠本いねは今ふうに申しますと、ハーフでもあって、美人でもあったという。それというのも、当時からいねに想いを寄せる医者なども少なくはなかったらしい。
今も楠本いねには、会うことができます。
東京、新宿、河田町に「東京女子医大」がありますね。この構内に、「楠本いね」の胸像が建っていますから。

フィリップが出てくる長篇に、『人間の絆』があります。英国の作家、サマセット・モオムが、1915年に発表した自伝的小説。

「フィリップはまもなく、ルイ十四世時代の悲劇役者や堂々たるアレクサンドランへの熱狂をこの友人たちとわかちあうようになった。」

これは当時の巴里での遊学の様子として。
ここでの「フィリップ」が、物語の主人公。つまりは若き日のモオムの姿なのですね。
また『人間の絆』にはこんな描写も出てきます。

「いまでは、縁の広いソフト帽に、ふわりと巻きつけた黒のネクタイ、ロマンチックな作りのケープなどを楽しんでいた。」

イギリスで着ていた古風な服装をすることはやめて。
「縁の広いソフト帽」。これはおそらく、「シャポオ・フウトル」のことかと思われます。
「フウトル」feutre は、フエルトのこと。
どなたか1910年代のフウトルを再現して頂けませんでしょうか。