レーニンとレインコオト

レーニンは、人の名前にもありますよね。
たとえばlenin と書いての「レーニン」だとか。
その昔
ソヴィエト時代の最高指導者だったお方。ウラジミール・レーニンのことです。
もっとも本名は、ウラジミール・イリイッチ・ウリャーノフ。1870年4月22日に、誕生。
「レーニン」は数多い筆名のひとつだったのですが。
当時、レーニンがもっとも信頼を寄せていた同士が、
トロツキー。

「現在の中央委員会中でもっとも有能で、現在の中央委員会のすぐれた指導者」

レーニンはトロツキーのことを、1922年12月24日の手紙の中にそのように書いています。
トロツキーは、1879年10月26日の生まれ。レーニンが九歳お兄さんだったことになるでしょう。
トロツキーは、レーニンの演説について、こんなふうに書いています。

「聞こえてくるのは、淡々と淀みなく非常に早口で語る声である。」

1924年にトロツキーが発表した『レーニン』の中で。
これには続きがありまして。

「そして、歓喜の渦が最高潮に達したかと思うと、うなり声と叫び声と喝采のあいだから突如、嵐をつんざくサイレンのように、誰か若者の長いつめた情熱的な声が響きわたる。」

こんなふうに閉めくくるのですね。
レーニンは天才的に演説がお上手だったのでしょうね。
余談ではありますが。レーニンはロシア語はもちろん、フランス語、ドイツ語、英語にも堪能だったという。
1932年12月に。トロツキーの演説の様子を写したのが、キャパ。デンマークの首都、コペンハーゲンで。
キャパ、十九歳の時に。
トロツキーの演説会場は、厳しい制限が行われていて。写真機の持ち込みは、厳禁。
キャパは写真機を隠して、持ち込むことに成功。
その時に、キャパが撮った写真は今も遺っています。多少、ボケてはいますが。でも、外に写真はないのですから、貴重というべきでしょう。
レーニンが出てくる小説に、『賜物』があります。
1937年に、ナボコフが発表した物語。

「その間に会話はレーニンの死後、失脚した何とかいうソ連の指導者のことに移っていた。」

ここでの「指導者」は、トロツキーのことかと思われるのですが。
また、『賜物』には、こんな描写も出てきます。

「ふと思ってフョードル・コンスタンチノヴィッチは立ち止まり、レインコートのポケットに手を突っ込だ。」

部屋の鍵を持って出たか、どうか確かめるために。
レインコートとはじまる歌に、『駅』があります。1984年に、竹内まりやが作詞作曲。その後、竹内まりや自身も歌って、人気の出た曲。

♪ 見覚えのある レインコート……

そんなふうにはじまる歌。
でも、竹内まりやは「見覚えのあるレインコオト」と歌っているのですね。
私も「レインコオト」と書く癖があります。これは竹内まりやの影響なのでしょうか。
どなたか見覚えのあるレインコオトを仕立てて頂けませんでしょうか。