武子とダイヤモンド

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武子という名はしばしばありますよね。でも、歌人で、佳人といえば、九条武子でしょうか。
九条武子は、お家柄がたいそうよろしくて。明治二十年。京都、本願寺法主、大谷光尊の次女として、お生まれになっています。大谷光瑞のお妹。
1909年に、九条良致男爵と結婚されたので、九条武子。ご本人は、歌人でありました。九条武子の遺稿、『白孔雀』の中に。

百人の われにそしりの火はふるも ひとりの人の 涙にぞ足る

そんな和歌が収められています。
岡本かの子は、九条武子についてこんなふうに書いています。

「多く武子夫人の稀有な麗容が世人の先ず驚異と渇仰の標的となったのに…………………。」

岡本かの子ばかりか、とにかく「九条武子」とくれば「麗容」にふれないわけにはいかなかったのでしょう。
長谷川時雨著『近代美人伝』に、もちろん九条武子の項があります。

「九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字も書けない。」

そんなふうに書きはじめているのです。その、長谷川時雨ご自身が、たいそうお美しいお方でありましたが。
長谷川時雨にしてみれば、もう言葉も出てこないほどの「麗容」だったのでしょう。
歌人で、佳人に、与謝野晶子がいますよね。与謝野晶子は、九条武子についてこんなふうに。

「まったくお美しい方って、京都が生んだ女性で、日本の代表の美人です。あの方に盛装して巴里あたりを歩いていただきたい。」

まあ、九条武子はどうも美人の中の美人、そのまたとびきりの美人だったようですね。
同じ長谷川時雨著『近代美人伝』の中に、福澤桃介の話が出てきます。福澤桃介が贔屓にしたのが、「マダム貞奴」こと、川上貞奴。福澤桃介はこんなふうに言ったという。

「女の望みは知れています。ダイヤモンド、着物、おつきあい、その上で家を買うぐらい……………………。」

つまり、男が男に惚れるより、まだ女のほうが安上がりだと、福澤桃介は考えていたのでしょうか。
でも、男だってダイヤモンドのカフ・リンクスもあったりしますからね。
なにか好みのカフ・リンクスを嵌めて、今様の、武子様を探しに行くとしましょうか。

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