芥川と赤いチョッキ

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芥川で、作家でといえば、芥川龍之介でしょうね。たとえば、『藪の中』。これはのちに、形容句になったほどの、名作であります。
そうかといえば、『蜘蛛の糸』。これは童話でもあるのでしょうが、その説くところには深いものがあるようです。
芥川龍之介の文学論とまいりたいところですが。とても、歯がたちません。そこで、音楽論を。芥川龍之介の音楽への関心はどうであったのか。
というのも、芥川也寸志のことがあるから。芥川也寸志は、優れた作曲家。そしてまた、龍之介の三男であるのは、いうまでもないでしょう。
毎年、暮れになると『忠臣蔵』が。あの印象的な『忠臣蔵のテエマ』は、芥川也寸志の作曲なのですね。
芥川也寸志は、どうして作曲家になったのか。幼い頃から父の遺品のレコオドを聴いていたから。もちろんそんなに簡単ではないでしょうが。約めて申しますと、当たらずとも遠からず。
大正四年十二月十二日。「帝國劇場」で、「東京フィルハーモニー會」の演奏が行われています。入場料、八銭と、一円と、一円五十銭であったと記録されているのですが。
この日の演奏會には、北白川宮両殿下、久邇宮両殿下のご臨席を賜ったという。
この演奏會に、芥川龍之介が出席しているのです。大正四年には龍之介、「東京帝國大學」の生徒だったわけですから、音楽に興味があったと言えるでしょう。

「途中の休憩時間になると、我々は三人揃つて、二階の喫煙室へ出かけて行つた。するとそこの入口に黒い背広の下へ赤いチヨツキを着た、背の低い人が佇んで、袴羽織の連れと一しよに金口の煙草を吸つてゐた。」

芥川龍之介著『あの頃の自分の事』の中に、そのように書いています。そして、その「赤いチヨツキ」の人物は、谷崎潤一郎だったのです。久米正雄がそっと小声で、龍之介に教えてくれた。
では、なぜ、谷崎潤一郎は「赤いチヨツキ」だったのか。
あくまでも想像ではありますが。ヴィクトル・ユゴーの影響かも知れません。
1830年12月5日。ヴィクトル・ユゴー作の『エルナニ』が上演。この時、ユゴーは自信作であることを示すために、ジレ・ルージュを。
谷崎潤一郎はこのユゴーの話を読んでいて、「いつか、きっと」と想っていたのではないでしょうか。
さて、赤いチョッキで。芥川龍之介の初版本を探しに行くとしましょうか。

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