襟巻とエマイユ

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襟巻は、マフラーのことですよね。
襟に巻くから、「襟巻」。まことに分かりやすいではありませんか。
マフラー m uffl er もまた。マッフルするものなので、「マフラー」。英語としては、
1535年頃から用いられているとのことです。ただしその時代には、手袋の意味でもあったらしい。「鎖手袋」。鎧で身を固めた時の、鎖手袋。これを「マフラー」と呼んだとのことです。たぶん「手を包むもの」に意味であったのでしょう。
日本での襟巻の歴史もかなり古いようですね。それというのも、日本の中世までの服装には「外套」の考え方はなく、しかも頸元の開いた構造ですから、寒い時には襟巻が必要だったものと思われます。

「………大尉は手早く外套の頭巾を脱ぎ、巻いていた白い毛絲の頸巻を外し……………………。」

國木田獨歩が、明治三十六年五月に発表した短篇『馬上の友』には、そのように出ています。ただし、時代背景は、明治二十七年の十二月に置かれています。
寒い外から帰って来た海軍の「大尉」は、ボーイのウイスキイを持って来させる。明治二十七年頃の日本海軍では「頸巻」をすることもあったし、ウイスキイを飲むこともあったことが窺えるでしょう。

「襟巻をするばかりになつて、伸子は部屋の眞中に立ち澱んだ。」

宮本百合子が、大正十五年に発表した『伸子』の一節にも、「襟巻」が出てきます。
この長篇小説『伸子』は、宮本百合子の自伝と考えてよいものです。
これは伸子が夫と暮らした家を出ようとする場面。
実際に、宮本百合子は大正十三年に、離婚を経験しています。二十六歳の時に。
宮本百合子は、明治三十二年、東京、小石川に生まれています。本名、中條ユリ。
昭和七年、宮本顕治と結婚してので、以降、「宮本百合子」を筆名としたものです。

「大正十三年十月三十日の日記には中條さんが午後から来て、十二時過ぎまで話しこんで歸つたことが書かれ……………………。」

野上彌生子の随筆『古い日記から』には、そのように書いてあります。
ここでの「中條さん」が、宮本百合子であるのはいうまでもないでしょう。また、その頃、
宮本百合子は野上彌生子と一緒に芝居見物にも行っているようです。
昭和十五年に、宮本百合子が書いた短篇に、『三月の第四日曜』があります。この中に。

「中央の大時計に合はせて紅いエナメル皮で手頸につけた時計を巻いてから、サイはまた不安な氣持になつて ハンドバッグをあけた。」

これは物語のはじめ。背景は、早朝の上野駅。「サイ」が駅に出迎えた場面。
時計のバンドが、エナメルなんですね。フランス語なら、「エマイユ」 éma il でしょうか。
フランス語での「エマイユ」は、1309年頃から用いられてそうですね。
エマイユは時計のバンドだけではなく、いろんなところで使われています。もちろん靴などにも。あるいはま、エマイユのボタンもあります。
どなたかエナメルのボタンが似合いそうなブレイザー を仕立てて頂けませんでしょうか。

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