パリとパンタロン・デレファン

パリは、シャンソンの都ですよね。
パリの街にはシャンソンが似合う。今もそんな印象があります。
『サン・トワ・マミー』を口ずさんだことのない人は、まずいないでしょう。
たしかにシャンソンはフランスの歌。でも、日本人の心の中にもシャンソンは住んでいます。
日本人の多くが、フランス人の歌うシャンソンを日本で聴いたのは、昭和二十八年のことではないでしょうか。
フランスのシャンソン歌手、ダミアが日本に来たので。
その年の五月、日比谷公会堂の舞台に立っています。
ダミアの『人の気も知らないで』。たぶん耳にしたことがおありでしょう。
このダミアの独奏会を聴きに行ったひとりが、芦野 宏。

「ダミアは、黒い袖なしのロングドレスに、真紅のスカーフ一本だけ使い、ピアノの前奏でとつぜん下手から現れた。」

芦野 宏の著書『幸福を売る男』に、そんなふうに書いています。
芦野 宏は今の東京藝術大学の卒業生。もともとクラシックの声楽家を目指していて。
戦後まもなく厚木の米軍基地で歌うようになって。その時、ピアノ伴奏をやってくれたのが、淡谷とし子。
淡谷とし子は、淡谷のり子の妹。
そんなことから、昭和二十七年に淡谷のり子に会って。
淡谷のり子は芦野 宏に言った。
「あなたの声はシャンソン向きですね。」
シャンソン歌手、芦野 宏が生まれた瞬間であります。
昭和三十一年七月十四日。日比谷公会堂で、芦野 宏は
「巴里祭シャンソンの夕べ」を開いています。
ざっと六千人の観客が押し寄せたという。
シャンソンのひとつに、『脱走兵の歌』があるのは、ご存じの通り。
1954年に、ボリス・ヴィアンが作ったシャンソン。ボリス・ヴィアン自身も歌ってます。もちろん、反戦歌。
マルク・デュフォーの『ボリス・ヴィアンと脱走兵の歌』を読んでおりますと。

「その役で、彼はラッパズボンを穿き、一九七0年代の不屈の反軍国主義者的風潮にあこがれ、」

これはボリス・ヴィアンが『脱走兵の歌』を歌う時の服装として。
「ラッパズボン」。フランスなら、「パンタロン・デレファン」でしょうか。
「象の脚みたい」と表現するのでしょう。
どなたかパンタロン・デレファンを仕立てて頂けませんでしょうか。