手とディッキー

手は、ハンドですよね。握手の時にも役立ってくれます。
右手があり、左手があって。それぞれに、五本の指がそなわっています。
左手に椀を持って、味噌汁を頂くことも。なにかと、暮しに欠かせないものでしょう。
手は、敏感。たとえば。薄紙が重ねてあって。そのうちから一枚の紙を取ろうとして。二枚重なっていたなら、すぐに分かります。
慣れてくると、かなり複雑な折紙もできるように。
指と頭はつながっています。指が敏感であるのは、頭が敏感な証拠でもあるでしょう。
手仕事を尊重したお方に、柳 宗悦(やなぎ・むねよし)がいます。
柳 宗悦が「民藝」の研究家だったのは、いうまでもありません。
では「民藝」とは何か。それは結局のところ、手技の尊重だったのですね。
柳 宗悦は、明治二十二年三月二十一日、午後七時に生まれています。
当時の住所で申しますと、東京市麻布区市兵衛町二丁目十三番地で。
この地は高台で、品川の海を見下ろすことができたという。
敷地は五千二百坪。広い庭には季節ごとに、桃、栗、柿などの果実が実ったとのことです。
柳 宗悦の手仕事礼讚は、あらゆる地域、あらゆる品々に及んでいます。北は北海道から、南は沖縄まで。
柳 宗悦は戦前から何度も沖縄に足を運んで。まだ、琉球と呼ばれていた時代から。

「今も沢山織っているもので、おそらく一番美しいものは芭蕉布でありましょう。芭蕉から糸を取って機(はた)にかけます。沖縄の夏は暑いので涼しいこの布が悦ばれます。」

柳 宗悦は戦争中に書いた『手仕事の日本』の中に、そのように書いてあります。
柳 宗悦と沖縄の関係も、古い。
お父さんの柳 楢悦は、明治六年に仕事で沖縄の測量をしています。
明治三十四年。十二歳の柳 宗悦が「学習院中等科目
」に入った時。同級生に、尚 昌公爵がいました。尚 昌公爵は、琉球王家の子孫。尚 昌公爵と柳 宗悦は親友に。
尚 昌公爵は、柳 宗悦を琉球に来ないかと、誘ってもいます。
柳 宗悦は明治四十二年(1908年)にはじめて、沖縄へ。
この時、柳 宗悦は沖縄の「紅型」(びんがた)の美を発見しています。
手が出てくる小説に、『渦』があります。1897年に、英国の作家、ジョージ・ギッシングは発表した物語。

「たくましかった手足は、なんの役にも立たなかった。彼女はやり場のない怒りを感じた。気の毒な人! 」

これは「ヒュー」に対する「シビル」の想いとして。
また、『渦』にはこんな描写も出てきます。

「ディッキー・ウェリントンを知らないね。エイダの従兄弟です。」

ここでの「ディッキー」が人の名前であるのは、いうまでもありません。
でも、一般名詞にも「ディッキー」dickey があります。
正装用シャツの胸当て部分。私たちがふつう「イカ胸」と呼んでいる部分のこと。
硬く硬く糊付けされているので、「イカ胸」。
正しくは「ディッキー」。
ディッキーはまた、襟部分だけを独立させたアクセサリーのことも「ディッキー」の名で呼ぶこともありますが。
どなたかディッキーが美しいドレス・シャツを仕立てて頂けませんでしょうか。