えびすと燕尾服

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えびすは、えびす様のことですよね。七福神のひとつ。
恵比須と書くこともあるんだそうですが。昔は、「ゑびす」とも。
烏帽子に、大きな袋を担いで、釣竿持って。いつもにこにこ笑っていらっしゃる。
「えびす顔」というではありませんか。
関西では、「えべっさん」とも呼ぶんだそうですが。
今、「七福神」といいましたが。ほんとうは七福神よりもさらに古い神様なんだそうですね。七福神信仰は、室町時代以降。でも、えびす神はそれより前からあったと考えられています。
えびすは、「えみし」からきているのではないか、との説が。えみしとは、「蝦夷」のこと。蝦夷は今の「アイヌ」の意味で、この強い人間が神にも思えたところから、「えびす信仰」がはじまったらしい。「あらえびす」の言葉もありますし。ここでの「あら」は、猛々しいの意味であったようですね。
飲むほうで申しますと、「恵比寿ビール」があります。一格上のビールという印象があります。
エビスビールの前身、「日本麦酒醸造会社」の代表銘柄として「恵比寿ビール」があったと、伝えられています。恵比寿の前には、「大黒」の候補名もあったらしいのですが、結局は「恵比寿」になったという。
恵比寿ビールがあれば、「アサヒビール」もあります。「アサヒビール」、そもそものはじまりは、明治二十二年のこと。「有限会社 大阪麦酒」として。資本金は、15万円だったそうですね。
その頃、日本にはビール会社がざっと100社ほどあって。だいたいビール一本の値段、
今の5、000円に相当したという。
明治二十五年に、アサヒビールを分析したお方に、森 鷗外が。

「助手をして朝日「ビイル」の分析に着手せしむ。」

明治二十五年九月二十七日の『観潮楼日記』に、そのように出ています。「観潮楼」は、当時、鷗外が住んでいた屋敷の名前。
森 鷗外は、「ビイル」と書いているのですが。鷗外がどうして分析しようとしたのか。詳しいことには触れていません。その頃の陸軍で採用する予定でもあったのでしょうか。
同じ『観潮楼日記』に、燕尾服の話が出てきます。

「燕尾服とり寄するほどの暇は充分ありけむといふ。」

『観潮楼日記』明治二十五年八月十日のところに、そのように書いています。
これは陸奥宗光に対して、山縣有朋が言った言葉とした。
明治天皇の御前に出るのに、陸奥宗光はフロック・コート姿。これを事前に咎めたのが、
山縣有朋。不敬である、と。「燕尾服に着替えよ」。
その経緯を鷗外は詳しく『観潮楼日記』に書いているのです。
少なくとも明治二十五年の、山縣有朋の頭には、フロック・コートよりも燕尾服のほうが
一格上の装いだというのがあったのでしょう。
実際には、「一格上」というよりも、フロック・コートは昼間、燕尾服は夜間の服装という区別のほうが大きいのではないかと、思うのですが。
それにしても鷗外のこの観察は、明治期の「燕尾服観」を識る上で、貴重な資料でもあるでしょう。
どなたかもう一度、1880年代の燕尾服を再現して頂けませんでしょうか。

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