巴里とパナマ帽

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巴里は、今も昔もヨオロッパの代表といった印象がありますよね。
巴里で学ぶことは、ヨオロッパで学ぶこと。そんな言い方もできるのかも知れませんが。
戦前戦後を通じて巴里に学んだお方は少なくありません。絵の勉強のために巴里に留学。音楽を学ぶために巴里に留学。あるいはまた、文学を学ぶために巴里に留学だとか。
日本人でわりあいはやく巴里に留学した人物に、西園寺公望がいます。明治三年、西園寺公望が二十三歳の時に巴里に渡っていますから。
西園寺公望は巴里で、ゴンクール兄弟とも親しく交わっているとのことです。

「今晩、ビュルティーの家で、西園寺公が三つのものが日本人としての自分の味覚狂喜させたといった。その三つとは、苺、さくらんぼ、アスパラガスである。」

『ゴンクール日記』の、五月三日木曜日のところに、そのように出ています。
ゴンクール兄弟は西園寺公望のことを、「プランス西園寺」と呼んでいたんだそうですが。
この時、西園寺公望の寝言の話になって。法律のことなどはフランス語で、寝言を。恋愛のことなどは、日本語で。そんな
Ruる話も『ゴンクール日記』には、出てきます。
西園寺公望はざっと十年間の巴里留学を振りかえって。『パリの回想』を書いています。この中に。

「市中を捜して、漸くリウドラペーといへる所の商店にて、白瓶に盛りたる醤油を発見したり」。

そんなふうに書いてあります。これは和食を自分で作ろうとして、醤油を探した話として。ここに出てくる「リウドラペー」は、リュ・ド・ラ・ペーのことかと思われます。
二合入りの醤油一壜が、日本円で三円だったとも。これは日本人の客が競って、値段をつり上げたために。この巴里の醤油は、オランダ人が日本帰りの船に積んだのがはじまりではないか。西園寺公望は、そんなふうに想像しています。
また、その店には「保命酒」もあったとか。それというのも、慶應元年に、徳川昭武を、ナポレオン三世が招いた時、「保命酒」が各自の前に置かれていたという。

明治四十一年に、一時的に巴里に立ち寄ったお方に、永井荷風がいます。これは巴里を経由してリヨンに赴くために。この時、荷風は巴里に二泊しているのですが。リュ・ド・ロオムに手頃な宿を見つけたので。

「牡丹のやうな、大きな、佛蘭西の白バラである。」

荷風は、『西遊日誌』の中にそのように書いています。
これは荷風が宿を出発する時。宿のマダムが、餞別としてくれた一輪の薔薇について。たぶん、ブートニエールにでもなさっては、の意味だったのでしょう。
永井荷風に、『断腸亭日乗』があるのは、ご存じの通り。その昭和三十二年七月一日のところに。

「松屋にて帽子を買ふ」

の一行があります。これは浅草の「松屋」。この日、荷風が買ったのは、アメリカの「ステットソン」のパナマ帽。サイズは、55だったようですね。
そのパナマ帽はクラッシックなオプティモ型でありましたが。クラウン頂上に、一本筋が立ったスタイルのものですね。
どなたか昭和三十二年のパナマ帽を再現して頂けませんでしょうか。

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