トランプは、西洋カルタのことですよね。では、カルタはどこから来ているのか。
カルタはポルトガル語の「カルタ」carta が語源なんだとか。カルタは、カードの意味だったそうです。
さて、「トランプ」はどうなのか。トランプtrump
はもともと「切り札」のこと。幕末、異人たちがカード遊びの最中、盛んに「トランプ」と言っているのを聞いて。「ははん、あれはとらんぷと呼ぶ遊びなんだな」と思ったので、「トランプ」になったんだそうですね。
向田邦子の小説に、『思い出トランプ』があります。昭和五十五年に、『小説新潮』に発表された短篇集。短篇の数はぜんぶで、十三。その第一作は、『りんごの皮』。『りんごの皮』の書き出しは、こんなふうになっています。
「入場券のはなしがいけなかった。」
うーん。これならどうしても読みたくなってしまうではありませんか。
これは学んでできることではありません。生まれ持っての才能なんでしょう。「向田邦子は天才」と言われるゆえんでありましょう。
「指先から煙草が落ちたのは、月曜日の夕方だった。」
これは『かわうそ』の第一行。
「耳の下で水枕がプカンプカンと音を立てている。」
これは『耳』の冒頭。なんだか西東三鬼の名句を想わせる味わいがあります。
水枕 がばりと寒い 海がある
昭和十一年に西東三鬼が詠んだ俳句。向田邦子が七歳くらいの時のことでしょうか。
向田邦子が食いしんぼうだったのは、広く識られているところでしょう。
たとえば。『二十八日間世界食いしんぼう旅行』の随筆もあるくらいですから。これは昭和四十七年の発表。この随筆の最後の文章は、こんなふうになっています。
「カキとワインとフランスパンのためだけにも、もう一度パリへ行ってやろう。」
これは食いしんぼうならではの弁でしょう。
食いしんぼうの向田邦子はももちろん沖縄にも足を運んでいます。
昭和四十七年に、『沖縄胃袋旅行』をも書いています。
「沖縄料理の名門「美栄」も、古い琉球のたたずまいを残す料亭である。」
向田邦子はそんなふうにも書いてあります。沖縄、那覇の「美栄」は、以前、古波蔵保好の店だったところ。もう少し正確に申しますと、古波蔵保好のお姉さんがやっていた店。それを後に古波蔵保好が引き受けていた時代があるのですね。
天下一品の洒落者でもあった人物。鯨岡阿美子のご主人でもありました。
向田邦子はついに自分で、小料理屋をはじめたことさえあります。「ままや」昭和五十三年五月十一日の開店。TV局にも近い赤坂に。
向田邦子は『「ままや」繁盛記』も書いているのですが。
開店初日は大雨で、客が一人も入って来ない。ヘンだなあと表に出てみると。「準備中」の札が。急いで札を外すと、客が入って来て、満員盛況。
実際に料理を作ったのは、妹の向田和子。向田和子はその前、五反田で「水屋」という喫茶店をやっていたので。
でも向田邦子はなぜ「ままや」をはじめようと思ったのか。「女一人でふらっと入れる店があったらなあ」と思っていたから。
ある時、女四人で食事していて。植田いつ子、加藤治子、澤地久枝との四人で。たまたま、その話を持ち出したところ、皆同じ思いだったので。
トランプが出てくる長篇に、『スキタイの騎士』があります。1941年に、プラハ出身の作家、フランティシェクが発表した物語。
「私はそこで越冬する人々とトランプ遊びをしていた。」
これはモラヴィア南部のポソーリスコエという町でのこと。また、『スキタイの騎士』には、こんな描写も出てきます。
「三角帽子を被って髪を付け、拍車の付いた騎馬用のブーツを履いていた。」
これはフランス士官の着こなしとして。ここでの「三角帽子」は、「トリコルヌ」tricorne
のことでしょう。三角帽。十七世紀の流行帽子。ブリムがあまりに広いので、前の2ヵ所、後1ヵ所を上に降り返したので、三角帽子。その帽子を上から眺めると、三角形に思えたので。
どなたか現代的なトリコルヌを作って頂けませんでしょうか。