トリスとトレンチコート

トリスは、ウイスキイの銘柄ですよね。サントリーが出しているウイスキイの名前。
私もまたそのひとりですが。はじめて口にしたウイスキイはトリス。そんな人は少なくないでしょう。トリスなら肩肘張らずにグラスを傾けることができますからね。
Toris と書いて、「トリス」と訓みます。
サントリーの前身は壽屋で、壽屋の社長は、鳥井信治郎。「鳥井の酒」の意味で、「トリス」になったのではないでしょうか。
そもそもの「トリス」のはじまりは、大正八年のことだとか。会社名が今の「サントリー」になったのが、昭和四年。つまり「トリス」の銘柄は、会社名の「サントリー」よりも古いということになります。
トリスの成功は「トリスバー」にあり。そんな印象があります。1954年のことです。
日本全国に「トリスバー」が生まれて。この時のトリス、ストレイトで40円。ハイボールで50円だったそうですね。一時は日本中に、1、560軒ものトリスバーがあったという。

「ウイスキーといわずに、トリスとご指名下さい。」

昭和三十年の全国紙に掲載された宣伝文。この宣伝文を書いたのが、開高 健。挿絵を添えたのが、柳原良平。役者が揃っていたんですね。
サントリーバーには、もうひとつの愉しみがありました。雑誌『洋酒天国』をもらえたのです。『洋酒天国』はサントリーが出していた宣伝雑誌。ところが宣伝くささのまったくない、洒落た内容だったのです。
いちばん好評だった時には、二十万部の発行部数だったという。歴史に遺る宣伝雑誌であることは間違いありません。
『洋酒天国』の創刊は、昭和三十一年四月十日。写真頁には、木村伊兵衛の「パリーの酒場」。読物頁には、佐野繁次郎の「フランスの酒」。福島慶子の「名もなき葡萄酒のはなし」。これなら誰だって読みたくなってくるでしょう。。
『洋酒天国』の編集長は、開高 健。社長の佐治敬三は、編集についてはすべて開高
健に任せていたそうです。ただ、社内の営業からは、「遊びが多すぎる」の声もあったようですが。

昭和三十三年の二月。サントリーに入ったのが、山口 瞳。もちろん『洋酒天国』の編集者のひとりとして。
山口 瞳は、1926年の生まれ。1930年生まれの開高 健の四歳年長だったのですが。
『洋酒天国』以前の山口 瞳は、編集者。多くの雑誌に編集者としてかかわっています。その意味では『洋酒天国』の編集にもふさわしい人物だったでしょう。

「ズボンはアメ屋横丁で買ったカアキイ色のアメリカ陸軍将校用の軍服である。」

昭和三十六年に山口 瞳が発表した『江分利満氏の優雅な生活』に、そのような文章が出てきます。
ここで山口 瞳は当時の自分自身の服装を語っているのですが。
また、『江分利満氏の優雅な生活』には、こうも書かれているのですが。

「アメリカ製中古のレインコート。」

この「レインコート」は実はトレンチコートではなかったでしょうか。

「私が恋文横丁あたりの放出物資を販売している店で買ってきた中古のトレンチコートを、瞳さんはとても気に入っていました。」

山口治子著『瞳さんと』には、そのように出ています。
山口治子が、山口 瞳の奥様であるのは、言うまでもないでしょう。
戦後まもなくの頃から、渋谷の道玄坂、一本裏通りにバラックが並んでいたもの。放出品なども多く並んでいたのを覚えています。
トレンチコート。それというのも、『瞳さんと』には写真が添えてあって。その時代の山口 瞳がトレンチコートを着た姿も載っていますので。
どなたか昭和三十年頃のトレンチコートを再現して頂けませんでしょうか。