沖縄は、昔の琉球のことですよね。今の時代考えれば、ウソみたいな話ですが。日本の内地から沖縄に旅するにはパスポートが必要で。戦後まもなくのことですが。
今、沖縄にはたくさん美味しいものがあります。たとえば、「ラフテー」だとか。ラフテーは皮つきの三枚肉。とろりと口の中でとけてゆく旨さがあります。
皮つきの三枚肉はなかなか手に入らないこともあって、沖縄に行って食べるほうが、早いかも知れません。
ラフテーを味わう時に欲しくなるのが、泡盛。泡盛は泡盛で極上品がありまして、「瑞穂」。瑞穂ひと口に、ラフテーひと口。小さな幸せの訪れです。
沖縄がお好きだったお方に、柳 宗悦がいます。あの「民藝」で識られる柳 宗悦のことですね。
柳 宗悦は明治二十一年三月二十一日。午後七時に東京に生まれています。当時の麻布、市兵衛町二の十三番地に。その敷地、五千二百坪だったと伝えられています。
この市兵衛町は、その後、永井荷風の自宅、「偏奇館」があった所でもあります。
「私が沖縄に渡つたのは大變におそく、昭和十三年のことである。」
柳 宗悦は昭和三十一年に発表した随筆『収集物語』の中に、そのように書いてあります。
その頃の沖縄では、「古着市」が盛んであったらしい。それは露天で、中古の沖縄の衣裳が数多く並べられていて。夕方の六時頃からはじまって。柳
宗悦は飽くことなく漁ったそうですが。
「流行おくれの品だと思はれてゐるから、値も驚くほど安かつた。私は着物の大部分を一枚につき三圓乃至六圓までの間で買つた。」
柳 宗悦は、そんなふうにも書いています。
以前、柳 宗悦の助手をしていたのが、女優になる前の荒木道子。荒木道子は、荒木一郎のお母さんでもあるのですが。
荒木道子は一時期、『工藝』の編集部にいたことがあるので。
「新橋の、南佐久間町の、「工藝」編集室に務めはじめた頃、私はまだほんの娘っ子でした。」
『柳先生』と題する随筆の中に、荒木道子はそのように書いてあります。
そんなこともあって、荒木道子はよく柳 宗悦の自宅を訪れることも。昼ごはんをごちそうになったり。
ある時、柳 宗悦の玄関に置いてある壺を倒して、割った。その時、柳 宗悦は言った。
「道ちゃん、ケガはなかったかい?」
「今、私が、工藝や民藝に愛を持つことが出来るのは、柳先生のおかげです。」
荒木道子は、そのように締めくくっているのですが。
柳 宗悦が昭和十一年に書いた随筆に、『芭蕉布物語』があります。これはその前年、八月二十五日に、日光の中禅寺湖畔で仕上げた原稿なんだそうですが。
「いつ見てもこの布ばかりは本物です。」
柳 宗悦は芭蕉布についてそのように書いてあります。
柳 宗悦は時代を変えて、事あるごとに、芭蕉布を褒めちぎっているのですが。
でも、柳 宗悦はなにも芭蕉布だけを見ていたわけではありません。
柳 宗悦は1952年にロンドンに旅しているのですが。この時の柳 宗悦はボンド・ストリートの生地屋で、英国製ウール生地を買い集めたという。柳
宗悦、六十三歳の時のことであります。
柳 宗悦が好んだ布のひとつに、小千谷縮があります。柳 宗悦が昭和十八年に書いた『手仕事の日本』の中に。
「雪に埋もれたそれらの地方は、雪水を活かして天然の晒しを施します。これがこの麻布を美しく、また丈夫なものになします。」
柳 宗悦は、小千谷縮についてそのように書いています。
小千谷縮は盛夏にこそふさわしい生地。でも、それを仕上げるには、極寒の、雪が多量に必要なのです。なんという皮肉でしょうか。
どなたか小千谷縮の上着を仕立てて頂けませんでしょうか。