ウイリアムとウール

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ウイリアムは、人の名前ですよね。それもわりあいと多い名前ではないでしょうか。
ウイリアム王子もそうですし。ウイリアム・テルは、物語には欠かせません。
でも、もっとも英国人に引用されることが多い人物は、ウイリアム・シェイクスピアでしょうね。
ふだんの会話の端々に、シェイクスピア劇の科白などを挟むのは、粋なこととされます。その人の教養がさり気なく示される瞬間でもあります。
ウイリアム・シェイクスピアが生まれた日時は正確には分かってはいません。
ただ、1564年4月26日に洗礼を受けたとの記録は遺っています。ここから逆算して、4月23日に生まれたのではないか、との推測もされているのですが。
それというのも。シェイクスピアは、1616年4月23日に世を去っているのですから。
もし、4月23日が誕生日なら、その同じ日に没したことになるわけです。
ウイリアム・シェイクスピアのお父さんが、ジョン・シェイクスピア。ジョン・シェイクスピアは、手袋用の革の鞣し業だったと、考えられています。が、その一方で、羊毛の取引も行っていたらしい。
シェイクスピア劇がよく上演されたのが、「グローブ座」。
1576年の倫敦に、「シアター座」というのがあったらしい。この
「シアター座」こそもっとも倫敦で古い劇場だろうと、考えられています。
その後、「シアター座」閉鎖。この「シアター座」を解体して、その古材を利用して「グローブ座」が建てられたんだそうですね。
1599年のことであります。たぶん、シェイクスピア自身も、なんらかの建築の手伝いをしたのではないでしょうか。
今、ロンドンで「ウエスト・エンド」といえば、「劇場街」の意味にもなります。ニュウヨークで「ブロードウエイ」というのにも似ているでしょう。それほどにウエスト・エンドには、主要な劇場が揃っているからです。
ウエスト・エンドには、「ウエスト・エンド劇場」もあります。
1932年、「ウエスト・エンド劇場」で大当りとなったのが、
『危険な曲り角』。ジョン・プリーストーリーの作でありました。
ジョン・ボイントン・プリーストーは、1894年9月13日に、英國のブラッドフォードに生まれています。
二十世紀はじめのブラッドフォードは、ウール産業の町でありました。
ブラッドフォードの、1801年の人口、13,000人。ところが1901年のブラッドフォードの人口、約280,000人に。
この十倍を超える人口増は、ウール産業のためであったのです。
時と場所とを得て、若き日のプリーストーリーもまた、ウール産業に従事したという。
そのプリーストーリーに、『イングランド紀行』があります。
『イングランド紀行』の大切な部分は、「ウエストライディング地方へ」でありましょう。
この章で、ブラッドフォード再訪が語られているからです。
プリーストーリーは1914年にブラッドフォードを離れてから、はじめてブラッドフォードの地を踏んだのです。

「ウエスト・ライディングは質実な厚手の繊維をつくっていたのに、世界は薄手の安物を求めていた。価格は低下していった。」

プリーストーリーは、『イングランド紀行』の中に、そのように書いています。
郷愁といえばそれまでのことでもありましょうが。
どなたかもう一度、厚手の高価なウール地を織って頂けませんでしょうか。

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