秋本とあきみせ

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秋本は、人の苗字ですよね。私も以前、「秋本○○」という知人がいましたが。
「秋本」はまた、鰻屋の屋号でもあります。なかなか古い店で、今も麹町で、繁盛しているようです。
この「秋本」の鰻がお好きだったのが、内田百閒。内田百閒はどのくらいに「秋本」の鰻がお好きだったのか。
ある時、内田百閒は、二十七日、ぶっ通しで「秋本」の鰻を届けさせたという。
この話は、高橋義孝著『大人のしつけ 紳士のやせがまん』に出ています。
内田百閒がまだお元気な時代。高橋義孝は、内田百閒に招かれて。ご自宅にお伺いすると、鰻の蒲焼が出された。で、その蒲焼がすこぶる美味しかった。それで百閒先生に、「どこの鰻でございますか?」とお伺いすると。
「いつも、麹町の秋本だ………」と、おっしゃる。それからは高橋義孝、「秋本」に通うように。

「私は、「秋本」へ行くと、品書きなど見ずに、白焼と蒲焼と肝吸い、それに香のものを註文する。」

高橋義孝は、『大人のしつけ 紳士のやせがまん』に、そのように書いています。
鰻には白焼もあり、蒲焼もあり、また鰻重もありまして。鰻重、鰻丼、鰻飯などのはじまりは、江戸、文化年間のことであるらしい。西暦の、1800年代はじめに。
これは芝居小屋、「上総屋」の主人、大久保今助が、鰻を冷めないようにと、考えたものだと、伝えられています。
大久保今助は、天保二年二月十四日に、七十八歳で世を去っています。江戸期の七十八歳は長寿でしょう。鰻のご利益だったのでしょうか。
高橋義孝の『大人のしつけ 紳士のやせがまん』には、こんな話も出ています。

「上着のボタンは三つつける。袖の飾りボタンはいわゆるアキミセではなく、本アキにしている。」

「アキミセ」も「本アキ」も、もともとは明治期の、職人用語。
もし漢字で書くなら、開見せ、本開きでしょうか。
十九世紀中葉のトゥイードサイド・ジャケットは、一般市民の労働着でもあって。ほんとうに袖口が二個のボタンで、開け閉じできるようになっていたのです。
「本開き」は、故き佳き時代への郷愁というわけなのです。
本式の本開きのやり方は、袖口から下三つだけを、開けることに決まっています。
どなたか本式の本開きのスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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