木村荘八は、日本の絵師ですよね。ことに永井荷風の小説『墨東綺譚』の挿絵は、代表作のひとつでしょう。
木村荘八が絵の取材のために、墨東を訪れたことは言うまでもないでしょう。
「………その日の中に、亀井戸から玉の井と一通りモテイフを歩いて来たわけです。」
木村荘八著『東京繁昌記』に、そのように出ています。朝日新聞社から荷風の原稿をもらったその日に、木村荘八は墨東に足を向けているのです。しかも、木村荘八は墨東をよく知っているのですが。
木村荘八は墨東の太鼓橋近くの茶屋で、くず餅を食べています。その合間に木村荘八は、鏑木先生に、鉛筆書きの手紙を書いているのです。鏑木清方からもらった手紙に、亀井戸の話がでていたので。
木村荘八の随筆には、『東京の風俗』もありまして。この中に、『清方さん雑感』も含まれています。
「ぼくは鏑木さんの喜を知つてゐるし楽を知らないことはないと思ふ。」
さらに続けて。友人の絵師が世を去ったとの報せにふれて、鏑木清方は画室を立って、自分の部屋に向う。でも、階段の途中に立ったまま泣き崩れた。木村荘八は鏑木清方のそんな話も書いています。とにかく「怒る」ということがなかった先生だ、と。
木村荘八と友人だったお方に、詩人の木下杢太郎がいます。
「誰の紹介であつたか忘れたが、一日奉天の僕の寓居を訪ねて来られた。」
木下杢太郎の随筆『木村荘八君』に、そのように書いています。
木下杢太郎は1921年に、『倫敦通信』の紀行文をも書いています。
「羊毛の廉さは格別で、日本で百五十圓の洋服は米國で五十弗、倫敦に於ては八ポンドに過ぎません。」
また、木下杢太郎は『倫敦通信』に、こんなことも書いています。
「………我我の非常に見劣りのすることを自覚せざるを得ませんでした。」
「殊に東京製の洋服は………」
まあ、これも服装美学の違いなのでしょうが。もっともこれは百年前の話なので、今は違っているのでしょうが。