珈琲は、人生の句読点ですよね。なにかやっていたことがうまく一段落すると、珈琲が欲しくなってきます。
一杯の珈琲が心を切り換えてくれるものです。
うんと濃い珈琲に、牛乳を加えて飲むのが、お好きなお方もいらっしゃるでしょう。
日本人はいつから珈琲を飲むようになったのでしょうか。さあ。たぶん、一般には明治になってからのことかと思われます。
明治期の珈琲。これはたぶん、喫茶店と関係しているのでしょう。明治の日本人ではじめての珈琲が、自宅というのは少ないのでは。やはり珈琲の専門店で、その味を覚えたものでしょうね。
日本での喫茶店。これについてもいろんな説があるようです。たとえば、「洗愁亭」。洗愁亭は、明治十八年頃の開業だと考えられています。西暦なら、1885年のこと。
1885年9月4日に。
どうしてその日にちが分かっているのか。その翌日、9月5日の『繪入朝野新聞』に、洗愁亭の広告が出ているので。
場所は、日本橋小網町四丁目五番地に。広告には、「のみや」と書いてあります。「西洋酒」も出したらしい。
というよりも一杯二銭の「西洋酒」を飲んだ客には、一杯の珈琲が只だった。ただし、9月4日からの三日間に限っては。
一方、京都の喫茶店はどうだったのか。京都の喫茶店では、「リプトン」がはやいらしい。あるいはまた、「鎰屋」も。「ラーヴェン」も。
「また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めた此の果物屋の眺めほど」
梶井基次郎が、大正十三年に書いた代表作『檸檬』に、そのような一節が出てきます。
梶井基次郎は当時、京都「三高」の生徒で、寺町あたりは散歩道。鎰屋にもよく通ったという。
『檸檬』に出てくる檸檬を買ったのが、「八百卯」だったそうですが。
その頃の「丸善」もこの近くにあって。梶井基次郎は「丸善」の西洋画の並んだ棚の前に立っていたそうですが。
「香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかつてはゆかなまつた。」
『檸檬』には、そんな文章も出てきます。当時の「丸善」は、舶来香水をも扱っていたようですね。
「梶井さんは本質的にはおしゃれであり、叉洋風のものを好むハイカラなところもあった。紺足袋などもわざわざ神楽坂の何とかいう足袋屋へ注文して、自分の足に合わせて仕立てさせたし」
平林英子は、『梶井基次郎』と題する随筆の中に、そのように書いています。平林英子は、梶井基次郎の「三高」時代からの親友、中谷孝雄の奥さんだったお方。梶井基次郎のことはよく識っているはずでしょう。
「ウヴィガンの香水の空壜があったのを異様なこととして、今でも覚えてゐます。」
宇野千代は、『私の文学的回想』の中に、そのように書いてあります。これは湯ヶ島での、梶井基次郎の部屋の様子について。
宇野千代は、湯ヶ島で、川端康成に紹介されて、はじめて梶井基次郎に会ったんだそうですが。
「梶井君が湯本館の私を訪ねてくれたのは、昭和元年の大晦日であつた。」
川端康成は、『梶井基次郎』という随筆の中に、そのように書いています。ちょうどその頃の川端康成は、『伊豆の踊子』を書いている時で。梶井基次郎は、『伊豆の踊子』の原稿の校正をしてくれたとも、書いています。
梶井基次郎は、川端康成の『伊豆の踊子』の原稿を、最初に読んだ人物かも知れませんね。
それはともかく、梶井基次郎が香水を使ったのは、間違いないでしょう。
梶井基次郎は香水の匂いを嗅ぐことで、詩想を得ていたのではないでしょうか。
どなたか男性用の香水を作って頂けませんでしょうか。