タトゥは、刺青のことですよね。tattoo と書いて、「タトゥ」と訓みます。
英語でのタトゥは1769年頃から用いられているそうです。これはタヒチ語語で「印」を意味する「タタウ」tatau
から来ているんだとか。この「タタウ」を本国に持ち帰ったのは、キャプテン・クックだったと伝えられています。
日本語ではふつう、「刺青」。紺色が主だったからでしょうか。紺色は着物にも少なくありません。タトゥは着物の代わり。そんな言い方もあったようですが。
日本の画家でタトゥをしていたお方に、藤田嗣治がいます。藤田嗣治はまことに手先の器用なお方で。左手頸に腕時計をご自分で彫っていたらしい。
刺青は、黥とも。また、彫物とも。
「イレズミは、日本語ではホリモノと呼んでいる。この二十世紀のあいだに、高い文明にたっした諸国民のうちで、日本人だけが、まだイレズミをひじょうにひろい範囲でおこなって、それを藝術品にまでしあげた。」
ドイツの医学者、エドウイン・ベルツは、明治十六年の論文の中に、そのように書いています。
ベルツはさらに続けて。今の東京だけでもおよそ三万人の人がタトゥをしているだろうと、推測しているのですが。もちろん、明治十六年頃の話として。
ドイツ人のベルツが日本のタトゥに興味を持っていたことは間違いないでしょう。
🎶 二の腕かけた 彫物の 櫻にからむ緋縮緬
ご存じ『弁天小僧菊之助』であります。もちろん、歌舞伎での名場面でも。正体のばれた弁天小僧が開き直るところ。たしか櫻ふぶきの彫物なんですね。これはもう彫物がないことには、絵になりませんからね。
明治二十四年五月四日。ロシアのニコライ皇太子が、長崎に到着しています。この長崎滞在中に、彫物を施したとの説があります。ニコライ皇太子はかねてから日本の彫物の噂を耳にしていたのでしょう。
なんでも両腕に、見事な龍の図柄を彫らせたという。
長崎の彫師、幸三郎と又三郎とに。ニコライ皇太子は二十五円を支払ったそうですが。
それはともかく、当時の長崎には腕の立つ彫師がいたのでしょうね。
明治四十年頃、永井荷風が彫物をした。その頃、荷風は藝者の「富松」と仲よくなって。左の二の腕に「こう命」と入れた。富松の本名がおこうだったので。また、おこうはおこうで、「壮吉命」と彫ったんだそうです。なんだか江戸時代みたいではありますが。
彫物が出てくる小説に、『刺青』があります。谷崎潤一郎が、明治四十三年に発表した短篇。
「清吉と云ふ若い刺青師の腕きゝがあつた。浅草のちやり文、松島町の奴平、こんこん次郎などにも劣らぬ名手と持て囃されて、何十とかの人の肌は、彼の絵筆の下に絖地となつて拡げられた。」
谷崎潤一郎は『刺青』の中にそのように書いてあります。
ここでの「清吉」は、もと浮世絵師。浮世絵師から彫物師になった設定になっています。
谷崎潤一郎の『刺青』を読みますと、彫物の正体が何であるのか、少し分かるような気持にもなってくるのですが。
タトゥが出てくる短篇に、『赤毛』があります。英国の作家、サマセット・モオムが、1921年に発表した物語。
「青いオーヴァーオールを穿いて、袖なしのジャージーを着ているので、二の腕から手首まで刺青した痩せた両腕が出ている。」
これは南海をゆく船の機関士の様子として。
同じくモオムの南海物に、『ホノルル』があります。やはり1921年の発表。
「時おりホノルルへ上陸する時などは、やはりスマートな麻服の上着も着こんで、りゅうとしたところを見せたかった。」
これは物語の主人公の想いとして。
「麻服」。原文は、「ダック」duck になっています。ダックは丈夫な平織地。もともとは絹地であったという。
どなたか絹のダックを再現して頂けませんでしょうか。