鉄道は、汽車ポッポのことですよね。🎶きしゃきしゃ しゅっぽしゅっぽ そんな歌もあるではありませんか。
なぜ、しゅっぽしゅっぽなのか。これは蒸気の音なんですね。蒸気の力で走るので、蒸気機関車。今は主に電気で走っていますから、しゅっぽしゅっぽとは言いません。
そもそも鉄道のはじまりが、蒸気機関車であるのは言うまでもありません。蒸気機関車の歴史は、十九世紀のイギリスにはじまっています。
1830年9月15日、水曜日に。リヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道が開通式を行っています。
これはマンチェスターで織った綿織物を、リヴァプールの港に運ぶにも、便利だったのでしょう。
これはほんの一例ですが。英国の列車は、それぞれの路線ごとに各社が経営する仕組だったようですね。
十九世紀に生まれた列車は、時代とともに走る距離も長くなって。そこで必要になったのが、食堂車。食堂車の歴史はアメリカにはじまる。そう言って間違いではないでしょう。
食堂車。ことに「プルマン」は有名でしょう。この「プルマン」は、ジョージ・モーティマー・プルマンの名前に因んでいます。プルマンはもともと寝台車を作る会社だったのです。
そのうちにジョージ・プルマンが気づいたのが、食堂車だったのですね。食堂車こそ、豊かな客が求めている最大のものだ、と。なぜなら、いちいち駅に止まって急いで食事するのは、時間の無駄だと、客たちは考えていたので。
ジョージ・プルマンが食堂車を登場させたのは、1867年のこと。この食堂車を作るに当たってプルマンが参考にしたのが、「デルモニコ」。当時、ニュウヨーク最高のレストランだった「デルモニコ」を。
プルマンは、「デルモニコ」のシェフを、高額の報酬で引き抜いて。いや、引き抜いたばかりではなく、その食堂車の愛称を、「デルモニコ」に。
プルマンは「デルモニコ」を宣伝するにも抜かりはありませんでした。
プルマンは新聞記者たちを招いて、実際に「デルモニコ」に乗ってもらい、食事をしてもらったのです。
1866年5月19日、水曜日に。
料理もまた、「デルモニコ」ふう。また、飲み物にも念を入れて。たとえば、「マム」のシャンパン。「モエ」のシャンパン。「ヴーヴ・クリコ」のシャンパン。「シャトオ・マルゴオ」のワイン。「シャトオ・ラフィット」のワイン。
この試乗旅行、試食旅行は、大成功。多くの新聞が食堂車の見事なことを書いてくれたので。
1922年11月27日。夜の11時に、マルセイユから、巴里行きの列車に乗った日本人が、松尾邦之助。松尾邦之助は47日間かけて、横濱から、マルセイユに着いたので。
今からざっと百年前の話ではありますが。
松尾邦之助は当時の巴里で活躍した編集者。たとえば、『日佛評論』の雑誌も出しています。そんなことから、巴里に住む日本人とも懇意でありました。藤田嗣治もまた、そのひとり。藤田嗣治は、『日佛評論』にも少なからず協力しています。
松尾邦之助が横濱を発ったのは、1922年10月12日。「諏訪丸」で。
1922年11月23日には、「諏訪丸」の甲板で記念写真を撮っています。諏訪丸の船長をも含めて。
船長は制服のダブルの上着を。ハイ・カラアのシャツに黒のネクタイを結んで。
この制服の上着が、テン・ボタンズになっているのです。襟はピークト・ラペル。左右に五個づつのメタル・ボタンが。
どなたかテン・ボタンズの上着を仕立てて頂けませんでしょうか。