ナイチンゲールと南蛮頭巾

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ナイチンゲールは、説明の必要がありませんね。
「クリミアの天使」と呼ばれた英国の献身的な看護婦のことであります。
もし、ナイチンゲールがいなかったなら、今の「赤十字」も生まれなかったのでは。そんなふうにも言われるほど。少なくとも十九世紀の医療活動が、ナイチンゲールによって大きく改善されたことは、間違いないでしょう。
フローレンス・ナイチンゲールは、1820年5月12日、イタリアのフィレンツェに生まれています。
お父さんのウイリアムと、お母さんのファニーが、イタリアを長期旅行中に。それで、「フローレンス」の名前が授けられたのでしょう。
このナイチンゲールの誕生だけからも窺えるように、ナイチンゲール家は富豪だったのです。
フローレンスには、「パーヤノピ」という名前のお姉さんがいました。お姉さんは今のナポリに於いて誕生。「パーヤノピ」は、ナポリの旧名だったので。

パーヤノピもフローレンスも豪邸に住んでいたお嬢さまで、何ひとつ不自由のない生活が約束されていました。
それにも関わらず、いや、それだからこそ、フローレンスは子供の頃から、「何か人の役に立つことはないか」と考える少女だったそうですね。
自分の幸福よりも前に、他人の幸福を思いやる性格だったそうですね。
ナイチンゲールが悩みに悩み、看護婦こそ人の命を救う尊い職業である。そのように気づいたのは、1850年頃のことだと考えられています。ナイチンゲールが三十歳くらいの時に。
それで、看護婦としての勉強の場所に選んだのが、ドイツの「カイザースウエルト学園」だったのです。1850年11月、ナイチンゲールは、カイザースウエルト学園を見学に赴いています。また、1951年7月からは、実際にカイザースウエルト学園で働くようになっています。

「わたしたちは、五時起床、六時十五分まえに、朝食をとります。パンとライ麦をやいたライ麦茶、昼食は十二時で、野菜スープ。三時に、パンとライ麦茶。七時の夕食は、野菜スープ。」

ナイチンゲールはそのような手紙を両親に送っています。

「おかげで、わたしの心も体も、強くなってまいりました。」

そうも書き加えているのですが。
ナイチンゲールの私生活は、お嬢さまとは思えない質素な暮らしぶりだったそうですね。だからこそ、戦場でも救助活動に従事できたのでしょうが。

1854年にはじまってのが、クリミア戦争。フローレンスが三十四歳の時のことです。多くの負傷者が出たことは言うまでもないでしょう。
ナイチンゲールはすぐに、船でクリミアのバラクラヴァに向かっています。8月4日に着いて、総司令官のラグラン卿に挨拶。ラグラン卿は全面的な協力を約束してくれています。
ところが1855年5月。ナイチンゲール自身が熱病に倒れて。絶対安静、面会謝絶。そこにひとりの軍人が訪ねてきて、「なんとしてもお目にかかりたい。」
それは、ラグラン卿だったのですが。
ナイチンゲールはその後、奇跡的に快復。
ラグラン卿はナイチンゲールの快復を、ヴィクトリア女王に手紙で伝えています。ヴィクトリア女王は、ナイチンゲールの病気を心配していたので。

ナイチンゲールが出てくる随筆に、『読書の態度』があります。芥川龍之介が、大正十一年に発表したものです。

「婦人の讀物といへば、ジャン・ダークか、ナイチンゲール伝とか、さういふものを推薦する人が少なくない。」

芥川龍之介が、同じ年に書いた短編に、『報恩記』があります。この中に。

「わたしの身なりと云へば、雲水に姿をやつした上、網代の笠を脱いだ代りに、南蛮頭巾を被つてゐたのですから。」

これは大泥棒の阿媽港甚内の語りなのですね。
ここでの「南蛮頭巾」は、古い時代から、用いられていたようです。南蛮人がかぶっている帽子なので、「南蛮頭巾」。それは、実際にはフェルト・ハットであったのですが。
どなたか現代版の南蛮頭巾を作って頂けませんでしょうか。

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