西洋料理は、洋食のことですよね。今の時代なら「フレンチ」とか「イタリアン」というのに、近いのでしょうか。
明治の頃にはたいてい「西洋料理」と言ったんだそうですね。西洋料理が短くなって、「洋食」になったのでしょう。
西洋料理は明治語のひとつなのしょう。でも、子供の頃には、「一銭洋食」の言い方がありました。それはごく単純なお好み焼きのことだったのですが。
「そろそろ開化し西洋料理。」
明治四年に、仮名垣魯文が発表した『安具楽鍋』に、そのような一節が出てきます。
明治のはじめすでに西洋料理の言葉があったのでしょう。ここでの「西洋料理」は、主に牛肉を食べることだったらしい。
江戸時代までは少なくとも、建前上牛肉を食べる習慣はなかったことになっていますから。
明治になってからは、牛肉を食べてもよろしいということに。その時代にあって、人にさきがけて牛肉を食べる人を、「開化」と呼んだらしい。
「大いに西洋料理でも食つて ー そらビステキが来た。」
夏目漱石が明治四十年に発表した小説『野分』に、そんな会話が出てきます。夏目漱石はここでは、「ビステキ」と書いているのですが。もちろん今のビフテキのこと。明治期には「ビステキ」の言い方もあったのでしょうね。
これは「高柳君」と、「中野君」とが昼飯を食べている場面として。「中野君」は、ビステキをナイフで切ってみて、肉の中が赤いことに感心しているのですが。
夏目漱石の小説には、しばしば「西洋料理」の話が出てきます。
「いつもなら通りへ出ると、すぐ西洋料理へでも飛び込む料簡で、得意な襞の正しい洋袴を、誇り顔に運ぶ筈である。」
同じく明治四十年に漱石が書いた『虞美人草』に、そのような文章が出てきます。これは「小野さん」の夕食として。
漱石は、「洋袴」と書いて、「ずぼん」のルビを添えているのですが。西洋料理を食べるので、いつもよりおしゃれをしている気分なのしょう。
もちろんこれは小説の中での話。でも、実際の夏目漱石も、「開化の人」として、西洋料理に抵抗がなかったお一人だったと思われます。
「それから真砂町で野々宮君に西洋料理の御馳走になつた。野々宮君の話では本郷で一番旨い家だそうだ。」
明治四十一年に出た『三四郎』の一節。これは三四郎が、野々宮君にご馳走になる場面。
「真砂町」は、当時の地名。今の本郷四丁目のこと。この真砂町には、「弥生軒」という西洋料理店があったらしい。たぶん、弥生軒で食事したのでしょうね。その時代の東京には、ざっと34軒の西洋料理店があったという。
夏目漱石が明治四十二年に書いた小説に、『門』があるのは、ご存じの通り。この『門』を読んでおりますと。
「鶉御召だの、高貴織だの、清凌織だの、自分の今日まで知らずに過ぎた名を澤山覚えた。」
これは「宗助」が呉服屋を冷やかしている場面。和服地が出てくるのも、当然でしょう。
漱石は「清凌織」と書いているのですが、ふつうは「清涼織」。ごく薄い絹織物。ちょっと絽に似た生地のことです。半透明の呉服地。
どなたか清涼織のサマー・スーツを仕立てて頂けませんでしょうか。