ボート・ハウスとボタン・フック

ボート・ハウスは、舟小屋のことですよね。
舟をしまっておくための家なので、ボート・ハウス。
自動車の車庫にも似ているでしょうか。
そういえば、「梃倉」の言い方もあるようですが。
ボート・ハウスにはもうひとつのあって。「舟家」。舟を自分の家にして、そこに住んでしまう。これもまた、「ボート・ハウス」。
日本ではあまり見かけませんが。ヨオロッパでは珍しくないようですね。川がある所には、ボート・ハウスを見かけることがあります。
パリのセエヌ川にもボート・ハウスが。ロンドンのテムズ川にもボート・ハウスが。
1950年代の一時期、映画俳優のジャン・マレエが、ボート・ハウスに住んだことがあります。それをココ・シャネルが、見学に行ったことがあるんだそうですね。
ボート・ハウスが出てくる小説に、『地を潤すもの』があります。1976年に、曽野綾子が発表した物語。
小説の背景は当時のシンガポールにおかれているのですが。

「水上民のボートハウスもひしめきあっている。」

曽野綾子はこの小説の取材で、シンガポールを旅しているのですね。
曽野綾子とシンガポールは、なにかと縁(えにし)があるようで。何度もシンガポールに足を運んでいます。
いや、シンガポールに別宅を買っているほどなんですから。

「一九九一年の十二月二十五日は、私たちがシンガポールに基地を作った日として記念すべき日ね。」

曽野綾子は随筆『日本人が知らない地球の歩き方』に、そのように書いています。
シンガポールでの友人、陳夫人に薦められて家を買った日のことを。
ここでの「私たち」が、夫君の三浦朱門であること、言うまでもないでしょう。
曽野綾子はシンガポールの空気だけでなく、その食事をもお気に召したらしい。

「私たちと同じ食堂で、嬉しそうにナシ・ブリアニと呼ばれる一種のチキン・ライスを食べていましたね。」

『日本人が知らない地球の歩き方』に、そのような話も出てきますから。
曽野綾子の小説第一作は、『遠来の客たち』です。昭和二十九年の発表。戦後間もなくの箱根が背景になっています。
当時、箱根の「富士屋ホテル」はアメリカによって接収されていたのですが。曽野綾子はここでアルバイトをしていて。
そこでの見聞を活かした内容になっています。
当時としては珍しく「ジイン・パンツ」の言葉が出てくるので、今も記憶に遺っています。

ボート・ハウスが出てくる小説に、『恋する女たち』があります。英国の作家、D・H・ロレンスが、1920年に発表した長篇。この中に。

「湖の曲がり角の、道のそば、くるみの木の下に、苔むしたボート・ハウスが建っている。」

また、『恋する女たち』には、こんな会話も出てくるのです。

「遅れて申しわけありません。ボタン掛けが見つかりませんでね。靴のボタンをかけるのに暇どりましてね。」

これは「アーシュラ」という女性の言葉として。
1910年代の男女は、たいていボタンド・ブーツを履いたもの。
このボタンド・ブーツのボタンを掛けるための道具が、「ボタン・フック」button fook
。先が鉤になった細長い棒。これをボタン穴から差し込んで、ボタンを穴に通して留めたのですね。
どなたか1910年代のボタンド・ブーツを再現して頂けませんでしょうか。