ラヴェルとカッターウエイ

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ラヴェルで、作曲家で、といえば、モーリス・ラヴェルでしょうね。
モーリス・ラヴェルがはじめてアメリカに行ったのは、1928年のこと。ラヴェルはロサンジェルスで、「ヴィルトモア・ホテル」に宿泊。その時、ラヴェルは弟のエドゥアールに宛てて、絵葉書を送っています。美しいヴィルトモア・ホテルの全景が写った絵葉書を。
ラヴェルはこの絵葉書に、一ヶ所、ピンで孔を開けて。そして、文章はこんなふうに。
「ここが私の泊まっている部屋です……」
1928年3月7日は、ラヴェルの五十三回目の誕生日。誕生会にはたくさんのゲストが。その中のひとりが、ジョージ・ガーシュイン。
ラヴェルはぜひともガーシュインに、『ザ・マン・アイ・ラヴ』を弾いてもらいたいと。ガーシュインは、弾いた。『ザ・アイ・アイ・ラヴ』を。弾き終わってガーシュイン。
「ラヴェルさん、私に作曲法を教えてください……」。それに対するラヴェルの応え。
「ガーシュインさん、やめておきましょう。ラヴェルが二人いても仕方ありませんからね。」
モーリス・ラヴェルの『クレマン・マロの2つのエピグラム』が初演されたのが、1900年のこと。
1900年に生まれたのが、長谷川海太郎。長谷川海太郎は、本名。
林 不忘の筆名で、『丹下左膳』を書いた人ですね。また、牧 逸馬のペンネームも。そして、谷 譲次の名前で書いたのが、『テキサス無宿』。『テキサス無宿』の中に。

「いつも火熨斗のきいた cut-away を一着に及んで教授のように上品に構えて……」

これはデイト伯爵の着こなし。「カッタウエイ」はアメリカならではの表現で、モーニング・コートのこと。
モーニング・コートは、その昔、ラヴェルも愛用した服なのですが。

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