スケッチとステットソン

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スケッチは、素描のことですよね。時と場合によっては、スケッチそのものが一枚の作品として鑑賞されることもあります。
あるいはまた、水彩や油絵の下描きとされることもあるでしょう。さらにはは絵の世界だけでなく、文章の世界でも「スケッチ」の言葉が用いられることがあります。
たとえば『千曲川のスケッチ』だとか。
島崎藤村の『千曲川のスケッチ』は、明治四十四年に発表された文章。なぜ、島崎藤村は『千曲川のスケッチ』を書いたのか。
島崎藤村は、明治三十二年の四月、「小諸義塾」の先生として、小諸に赴任しているからです。
余談ではありますが、明治三十二年七月二十一日は、アーネスト・ヘミングウェイの誕生日でもあります。

「揚羽屋へ寄って、大鍋のかけてある炉辺に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると」

島崎藤村は『千曲川のスケッチ』にそのように、書いています。これは小諸の「揚羽屋」という食堂の様子について。
小諸はまた麺類の旨い所でもあって。たとえば、「お煮掛」。これは手打ちうどんの上に、野菜などを煮たものをかけて食べる土地の料理なんだそうです。
揚羽屋。土間があって、座敷があって、囲炉裏があって。造りたての豆腐が食えて。どこかに「揚羽屋」ありませんでしょうか。

スケッチが出てくる小説に、『アフリカの緑の丘』があります。
ヘミングウェイが、1935年に発表した物語。これはヘミングウェイが1933年に行ったアフリカでのサファリ旅行が背景になっています。

「つねに挿話であり、スケッチであり、コントであり、云々との断り状が添えてある。」

これは巴里時代を振り返ってのこと。ヘミングウェイが原稿を出版社に送ると、返されてくる。「これは小説ではなく、スケッチだ」という理由で。
また、『アフリカの緑の丘』には、こんな描写も出てきます。

「奥さまはステットソンの帽子を横っちょにかぶってドルーピーみたいに歩こうとし」

ここでの「奥さま」は、当時のヘミングウェイの妻、ポーリンのことかと思われます。1933年のサファリ旅行には、ポーリンも同行していましたから。
「ステットソン」がアメリカの帽子メイカーの名前であるのは、言うまでもありません。ステットソン製のブリムの広い帽子だったのでしょう。
ただ、当時のアメリカ人は、高級帽子であれば「ステットソン」と呼ぶ傾向があったのも事実です。
どなたか1930年代のステットソンを復活させて頂けませんでしょうか。

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